いっそのこと「有害指定」しませんか? "頼れるどころか、もはや「有害」な日本の震災報道"

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言い換えれば「マグニチュード9.0の巨大地震」「大津波」「原子力発電所事故」という大きなクライシスが3つ重なった状況で進行している現在の紙面や番組こそが、日本の報道機関の「自己ベスト」=「渾身に振り絞った実力」だからだ。これ以上のクオリティは、望んでも、もう存在しない。

そういう意味で「3.11報道」は「日本の報道の自己ベスト記録」として、将来当分の間、比較検証のサンプルに使われ続けるだろう。次に戦争が起きても、日本の報道はこのくらいのレベルだと思ってもらって構わない。

結論を先に言えば、残念ながら、その「自己ベスト記録」に私は毎日落胆し続け、5日目にそれは「絶望」に近い気持ちに変わっている。

これだけ毎日、新聞を綿密に読み、ニュース(テレビ、インターネット両方)にかじりついているのは、1995年(1月に阪神・淡路大震災。3月からオウム真理教事件)以来16年ぶりだ。その間、日本の報道は「成長がない」どころか「劣化」が隠しようもない。

私はそれを、元新聞社の社員記者、あるいはフリー記者という「同業者」「観察者」という立場だけで見ているのではない。私は東京都心に家族と住む市民の1人である。地震の翌日から危険な暴走を続けている「福島第一原発」の放射線の影響が一体どの程度危険で、どの程度広範囲に広がるのか、自分と家族、友人の生死の問題として、切実に情報に飢えているのだ。


東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)以来、多くの人がより強く、そしてようやく気が付き、または「これまで騙されていたのか」と嘆きながら感じている、一部報道(一部、というより「大分」の方がいいかな)への憤りと疑問と不審。それが元新聞記者の口から淡々と語られている。その言葉にはずっしりと重い、そして納得するしかない主張が反映されている。最後の言葉、

平時なら「ミスリードでしたね」とへらへら笑って許しているかもしれないが、これは戦争並みのクライシスなのだ。生死がかかっているのだ。この愚劣な報道は有害ですらある。

もう一度言う。クライシスに市民のために役立たない報道など、何の存在価値があるのだ。


これが恐らくすべてを語っているにちがいない。もちろんちゃんとやってるところもあるけれど。民放の多くは今や電気と電波資源の浪費の対象でしかない。

当方もこれに関していくつかコメントした。「予算がない? マーケティングだ? 視聴者が求めている? タワケたことを」「元々不審がられていたマスコミにはチャンスでもあった。しかし今回、多くのマスコミは、チャンスをピンチに変えてしまった」。そして「平時の無能は無能でしかないが、有事の無能は人死にを生み出す」。

そう、今は「有事」なのだ。

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このページは、不破雷蔵が2011年3月18日 17:45に書いた記事です。

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