[300年前の英断に感謝(東愛知新聞)]
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いまから300年前、駿河湾沖を震源地とする宝永の大地震で大津波を受けた後、多くの集落がそっくり後背地に移った。
「宝永4年(1707)10月4日の午後1時半すぎ、突然大きな地震が起き、ややあって大津波が襲ってきた。山が崩れ、谷が埋まり、人馬の多くが死んだ」。とくに赤沢、東伊古部、西伊古部の被害が大きく、「約1.5キロ四方が水の中に没した。人々は小高い山に避難。避難生活は2カ月にも及んだ」と伝える。
海岸から約2キロ離れた場所に立地する東観音寺によると、同寺は当時海岸そば、切り立った海食崖の背後にあり、地震および大津波で大きな被害を受けた。 同寺では「おそらく、大津波で被災した住民らが後背地に移ることを決めた。寺も損壊したことから一緒に移ったのだろう」と推察する。同寺の移転は翌年に始まり、9年間かけて完了したという。
「海岸居住を捨てる」という大きな決断のおかげで、安政元年(1854)の大地震では「片浜十三里みな崖崩れる」状況に陥りながらも人的被害はそれほど大きくなかった。
いまも海岸そばに、当時をしのぶ碑などが建つ。住民は口をそろえて「いまわれわれが、安心して暮らせるのは、あのとき思い切って集落ごと移転してくれた先祖のおかげ。英知と勇気を讃えたい」と感謝する。
今朝の【街道が物語る先人の知恵・津波は「街道手前で」止まっていた現実】について、
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