[津波 40m余まで駆け上がる]
東日本大震災から3か月がたちましたが、気象庁や専門家などが行ってきた津波の現地調査の結果がこれまでにほぼまとまり、津波は高いところで40メートル余りの高さにまで陸地を駆け上がっていたことが分かりました。
3月の大津波は、各地の検潮所の施設が破壊されたり、停電や通信障害で観測データが集められなかったりして、長い間、全容が明らかになっていませんでした。その後、気象庁や専門家の調査グループが津波の痕跡などを調査し、これまでに結果がほぼまとまりました。
また、大学や研究機関の専門家で作る「津波合同調査グループ」のまとめによりますと、岩手県の宮古市重茂姉吉では、津波が陸地を駆け上がった高さが40.5メートルに達していたほか、岩手県野田村では37.8メートル、宮城県女川町では、34.7メートルの高さにまで駆け上がっていました
[明治の教訓、15m堤防・水門が村守る...岩手]
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津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代(ふだい)村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
【社団法人日本埋立浚渫協会の解説ページ】に詳しい解説があるけど、津波が非常に高い場所までやってきた場所の多くは、いわゆる「リアス式海岸」。波のエネルギーが圧縮されるので、どうしても通常の海岸と比べて高台にまで登ってしまう。だからこそ下の普代村のような、経験則に基づいた対応がとても大切になる。
迷信や伝承ってのはつい軽視されがちだけど、その多くが「そのようなものに形を変えてでも、どうしても後世に伝えたい情報」が含まれていることも多いからね。バカにしちゃいけないってことだ。
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