●「100%の安全」はない
さらに、アメリカで安全保障問題について議論する際によく使われる言葉で「minimize risk」という言葉がある。「リスクの最小限化」ということだが、この大前提として「リスクは0%にはならない」という考えが定着している。軍用機の使用で言えばこういうことだ。どんなに完璧に整備をし、乗員に施せる限りの訓練を実施したとしても、飛行当日が視界不良の悪天候だった場合は事故が起きてしまうかもしれない。どんなに操縦士の腕が良くても夜間飛行など、難しい環境であればあるほど、事故のリスクもあがる。事故の原因を究明し、結果を公表し、対応措置を取ったとしても、それ以降の事故の確率は決して0%にはならない。当事者にできることは、常にリスクを最小限化するための努力を続けることだけである、という考え方だ。
翻って日本ではどうか。米軍や自衛隊による事故が起こるたびに、「再発防止」が叫ばれ、常に「100%の安全性」が求められる。「最善の努力をしても事故のリスクはなくならない。だからリスク回避のためにはこういう措置を取りましょう」あるいは「万が一事故が起こった場合にはこのような手続きで速やかに原因を調査し、結果を公表して今後に役立てていきましょう」といった議論をする余地がそこにはない。オスプレイ配備をめぐる反対はその顕著な例といえる。
しかし、福島第一原子力発電所の事故や事故後の対応の検証から出てきた一番の教訓は「100%の安全という非現実的な神話にこだわるあまり、普段からのリスク管理や緊急時の対応などについて十分な対策がとられなかった」ことではなかっただろうか。何事にも「100%の確証」はない。それを求めること、またそれが確保されなければ反対、という立場をとることは非現実的なのだ。
少々長めだけど、ハッとさせられたところがあったので該当する部分を引用・紹介。
先日から新聞やテレビ報道、一部の方々の「オスプレイは危険なので危ないのでリスクが高い(※要は良くわからずに反対している比喩的表現)」的な言動があまりにも異様すぎる、まるで何かに取りつかれたかのような動きに、頭の上にはてなマークを浮かべる次第。過去の数字やら経歴も出鱈目な解釈や、すでに否定されている話を持ち出してくるなど、「理由はどうでも良いから何でも反対」という姿勢を見て、「報道機関としての職務を忘れている、スキルが低くなったにしても、ちょいと必死過ぎだな」という感があり、どうしてだろうかと思っていた。それが一部ではあるけど、分かった感がある。
要は、震災対策や電力周りと同じで、「100%でないものは全部ゼロ」&「100%でないもの"A"は全部否定して、それと相反するものは(100%どころか"A"と比べてもリスクが高いもの、あるいは確証度・論理的な確からしさが低いにも関わらず)"A"ではないという理由だけで盲信してしまう」という、パニック論的な心境に行き着く、あるいは("A"でない方が都合が良い人たちに)悪用されているんだよなあ、というところ。
以前紹介した【二分法の罠】と共通する部分もあるし、非常に納得できた次第。あるいは前世紀末の某新興宗教の浸透における状況(現状を悲観したエリートが、その対極にある、非論理的な論旨を展開する教団を信奉してしまった)にも似ている。......「宗教的盲信のような雰囲気、異様さ」という観点でも、納得ができる。(意地悪く表現すれば、数理的・論理的に対抗できないので、感情論に走る・走らせると考えることもできるよね......思い当たる状況、結構あるでしょ?)
人によっては「感情的なものだから仕方ないじゃない」という開き直りを見せる人もいる。それはそれで一理あるけど、感情論を前面に押し出すことで、相手側にもそれを認めさせてしまうこと、そして実態や実測、事実を元にしない選択肢は、(悪用した人以外は)誰も得をしないということに、気が付かなきゃいけない。
「100%ではないから」という状況下。それとは別の、「(実際は10%位なんだけど)『100%ではない』とは別の選択肢ですよ~」と喧伝する、もう一つの選択肢をチョイスするような愚行は、当方はしたくは無いな。
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