単にメディア、報道をバッシングするだけでは時間と労力の無駄

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元々の体質が暴露されただけなのか、あるいは経年劣化のせいなのか、「報道」の大義を振りかざし続けたことから自浄作用が働かないのが理由なのか(恐らくすべてだろう)、日本の既存メディアの質が劣化しているとの話を良く見聞きし、実体験している。しかし、仮にメディアがダメだとして、単にこれまで通りにバッシングをしても、リソースの無駄になる場合が多い。これまでの実情がそれを証明している。何か状況的に進歩発展改善したところがあっただろうか。

なぜバッシングしても意味がないのか。体質そのものとして、元々叩かれる要素を内包しているので、何度でも同じことが繰り返されるからだ。例えば事実でなくとも、意図がねじ曲げられても、否定的・危険性を煽る記事が繰り返されるのは、第三者は「生存本能の観点から、プラス要因よりもマイナス要因の方を注視しやすい」「他人の不幸で相対的に自分の幸福感を覚える」からである。自分の生死にかかわりうる情報は、誰とて目を見張る。それをメディアは知っているからこそ、煽り記事は繰り返される。

そして叩かれる体質や内情が、バッシング程度で是正されるような器量をメディア側が持ち合わせているのなら、そもそもそのようなことはしない。さらに「やればできる子」は滅多にいない。

「それでは状況は悪化するばかりでは」。現在進行形の状況がまさにそれ。そこでいくつかの提言を覚え書き代わりとしてしてみたい。

(1)記名記事の促進と責任の明確化
海外報道では当たり前の話だが、極力記名原稿化を推し進めるような雰囲気を形成する。そして無記名ならば、その媒体全体(企業単位)に責任を持たせる。記名原稿には執筆者が責任を持って展開をする。そしてそこには必要時には一定の指摘と訂正を受け入れる体制が整備されていなければならない。また、記名記事ならば、【ネット上でウソや欺瞞に騙されないためのチェックリスト】を有効活用できる。

企業全体が責任を持つ記事(=無記名記事)で生じた問題には、個人による問題と同レベルで媒体企業に対応をしてもらう。対メディアの場合、概して「企業全体としては些細な話なので、無視。あるいは遺憾に思うでオシマイ」とし、責任そのものが薄れてしまう......という常識をメディア自身が作り、責任回避のルートとして確立してきたのが実情。

だが少し思い返してほしい。一般企業の場合なら似たような事例の場合、一支店の問題とて、企業全体が謝罪に応じ対応を求められるのが常である(先の「アイスクリームケース乱入事件」が良い例)。

(2)ケアレスミスを認める体制を求める
ケアレスミス、ちょっとした間違いは誰にでもある。それを認める姿勢が欠かせない。ところがそのミスを誤魔化し、あるいはなかったような姿勢を繰り返していると、米の調査のように「メディアはミスを誤魔化す」という認識をされ、メディアそのものの存在価値は地に落ちる。自業自得ではあるが。


↑ 報道機関は自らの間違いを認めるか(【ミスを認める18%・誤魔化そうとする72%...米でのニュースへの信頼性などをグラフ化してみる】より)


(3)事実の隠ぺいや意図的な誤認・誤情報の展開による、非難の対象となる記事を書けない、書いても環境的に否定されるような「場」の構築
例えば先日の【報道される側の一次情報公開のススメ】が好例。
本来メディア、報道の存在意義、求められている要素は「分かりやすく端的な解説」「多様な付加情報をつけて理解度を深めるための存在」である。誰も時間が限られているからこそ、要約してくれるメディアを求め、信頼している。ところが上記にある通り、その信頼性が薄れている現状は否めない。

「分かりやすく説明する」と「事実と違う内容を説明する」は別物である。


このような話を展開すると、必ず「報道が委縮してしまう」「報道の自由が束縛される」という反論がある。しかしそれは勘違いでしかない。メディアに、報道に「自由」はある。これは間違いない。しかしその「自由」は必然的に責任を伴うものに他ならない。責任の無い「自由」は「自由」では無く、「自由奔放」でしかない。そしてその「自由奔放」は「報道」の名の下に保護されるものではないのである。

現在、メディアが、報道が振りかざしている錦の御旗である「自由」は、実態としては責任の無い「自由奔放」でしかないのではないだろうか。

誰かが言っていた。「不特定多数の場にさらされる言葉に責任を求めるのはキライだ」と。しかし責任の無い言葉は、第三者に公知喧伝されることを前提とするのなら、重み、真実性は極めて薄っぺらいものとなる。楽しい・面白いのようなエンタメベースのならともかく、事実か否かの確証が必要なものの場合、それを裏付ける必要が生じるからだ。

そして裏付け行為が必要な場合、その言葉は報道・メディアとしての意義を持ち得ていないことになる。手持ちの時計が指し示す時間が正しいか否かを、別の時計で確かめるようなものだ。そしてそのような場合、「手持ちの時計」の存在意義はあるのだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2013年8月19日 07:15に書いた記事です。

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