「空気」とはこの言い回しの中ではその場の状況、そして社会的な雰囲気、ルール、しきたり、暗黙の了解的なものを指し、一概に「これ」とは断定しにくい概念的なものでもある。そしてその「空気」は、本物の空気(地球上に存在する、主に窒素と酸素で構成される気体)同様、目に見えないもので、どこにでもある、皆が共通認識している不文律のようなもの。 それを無視すること、つまり「空気を読まない」(抜け駆けをする、という表現もできるかな)で益を得るものが出れば、大抵においては多くの「空気を読んでいる人」が不利益を被ることになる。そしてそれが繰り返されれば、空気を読まない人の益は増えるが、その分不利益を受ける人は相乗的に増えていく。 状況の不安定度が大きくなると、大抵はその状態を是正するため、新たな成文律がなされる。要は「文章に書き記してキッチリと規制しないと分からないのね」ということ(現実にはごく一部の人しか「分からない」(さらには「分からないふりをしている」のだが))。結果として皆が窮屈さを覚え、不利益をうける。そして最初に「空気を読まずに益を得た人」が勝ち逃げすることになる。 「空気を読む」という行為は、ジェレミ・ベンサムの功利主義ではないが「最大多数個人の最大幸福」を得るため、自然発生化した仕組み、皆の暗黙の了解に他ならない。「空気を読まない」行為は、中長期的に見れば皆の損失につながるということを、皆が経験則として知っている(それこそが「空気を読む」なのだが)。 安易な例えになるが、子供が集まるイベントで、複数種類のお菓子がバイキングスタイルで用意される場があったとする。量的には一人一つ、良くても二つぐらいしか量が無いのは誰の目にも明らかだが、一人二人が自分の皿に10個も20個も装ってしまうと、皆が皆同じようなことを行い、お菓子をもらえない子供が出てきてしまう。会場は我先にとお皿にお菓子をのせる子供で混乱し、もらえなかった子供は泣き出してしまうだろう。 このようなことが起きると、主催者側はこのスタイルを止め、係が一人に一つずつ配るスタイルに代えてしまう。子供達はお菓子をくいっぱぐれることは無くなるが、自分の好きな種類のお菓子を手に取る機会は逸してしまう。あるいはお菓子の配布自体が無くなるかもしれない。「無理な例えだ」と批評する人もいるかもしれないが、当方はあるイベントでこれに近い実体験をしており、決して笑いごとで済まされるようなものではない。 「空気を読まない」行為。中には停滞感・閉塞感を打破するための確信的な手法となることもある。しかしそれを免罪符にして、「空気を読まないことは素晴らしい」という風潮はやはりおかしい。「空気読め」という諌めの言葉がストッパーに成り得ないのなら、「常識を知れよ」「非常識だな」「倫理観無いの?」「道徳の教科書貸そうか」「社会不適合者なの?」「魂を汚す気なのね」などのような、もっと分かりやすい表現を使った方がいいのだろうか。
空気を読まないもの勝ちという風潮はどうにかならないのかな。先日の【「アフタヌーン」印刷証明部数が3.2万部と伝えられていた件について】やそこからの派生記事となる
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