論点を巧みにすり替えて自責をなかった事にしようとする好例。所謂「責任転嫁」。誰が「だけが悪い」と言いました?...佐村河内守だけが悪いのか? http://t.co/gXs8ko8IDt
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 2月 12
聴き手云々とありますが、それを煽動したのは新聞等ですよ? 聴き手への問題提起をするのなら、その前に報道自身の総括、自己批判が必要不可欠かと。それ無しに「聴き手にも問題」とは順番が違いますね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 2月 12
「嘘はいけないが、騙される聴き手側も悪いのではないだろうか?」
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 2月 12
(加えるなら、騙された云々という事実があっても、それでもなお、曲そのものの良さに変わりはないということですね)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 2月 12
先日から続いている、目が不自由な作曲家として名を馳せていた佐村河内守氏が、実は自前の作曲では無かったこと、さらに身体的障害そのものにも疑念が浮かんでいることなどから、大きな問題として持ち上げられている。最初に述べておくけど、誰が創ろうと曲自身の良し悪しには変わりが無く、氏の作成として世に送り出された曲の数々が本質的に良いものであれば、それは今件がどのような結果に終わったとしても、名作には違いない。
その上で。一連の問題に関して「騙した側は悪いけど、騙された聴き手にも問題はないのか?」と問題提起を朝日新聞が行っている。まぁ、ウェブロンザという場所ではあるけれど、「朝日新聞社がお届けするウェブベースの新しい言説の空間」であるわけだし、何より冒頭の解説部分は朝日新聞による提供文。
「目が不自由な作家が創った」という要素が、曲の評価上プラスとなった部分は確かにあるだろう。その点は問題といえなくもない。しかしそれを論じるなら、まずはじめにそのような解釈をすることを煽動した、氏の欺瞞を見抜けなかった(あるいは見抜いていたかもしれないけど見過ごしていた)報道側に大きな問題があり、それを差し置いて「聴き手にも問題があるんじゃね?」と責任を転嫁するのは、まさに「お前が言うな」としか表現のしようがない。
上のロンザのコメント部分で突っ込まれまくっているけど、大体指摘はあってる。むしろ「感動の美談」を煽った報道こそ、一番の責任があるんじゃないの? 「有難がれ、愚民たちよ」的な感じで美談として伝えておいて、それを差し置いて「聴き手も悪いよね?」とするのは、責任感の欠片も無い証拠。
「佐村河内守だけが悪いのか?」との問いには「朝日自身も含む、煽った報道がもっと悪いよ」という答えが一番正解に近いのかもね。
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