いわゆる「盲導犬による誘導」から「テレビ視聴」というゲームスタイルの話

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平成10年というと1998年、前世紀末。出展は「ゲーム批評」の投稿コーナーによるものとのことだけど、すでに15年以上前の時点で、このような疑問が呈され、話題となっていたことに、ちょいと驚きと、そして同時に「なるほどな」的な感想。1998年といったら、プレステーションの初代の円熟期に当たる時代、かな(プレステ2は2000年3月発売)。画像の高解像度化・高処理化でビジュアル的な面で爆裂的にゲームは進化したけど、同時に「試行錯誤」的な所が損なわれているんじゃないかという自問自答的な話も出てきたころ、という記録があちこちに見受けられる。

漫画家の鈴木みそ先生の漫画にも「ゲーム好きな若年層は考えることが苦手。手を引っ張ってもらって解くようなゲームですら面倒くさく、ボタン押しのみで進むゲームが受ける」という笑い話にもならないようなエピソードが載っていた記録があるし、いわゆる「盲導犬ゲーム(盲導犬に案内されるようなスタイルでのゲーム。盲導犬そのもの、その利用者を揶揄しているわけでは無い)」との表現もちらほらと。また、攻略本が単なる攻略本では無く、ガイドブック、案内地図的なもの(書かれている通りに操作すればクリアできる、説明書的なもの)に変わりつつあったのもこのころだとされている。

で、追加で描かれた自販機の絵は、「まだ当時は階段を使って登ってバナナを取るという発想があった。でも今のゲームって、自己思考の部分すらなく、目的を達成するためにお金を投入するたげのソフトになってないか」、言い換えれば「ゲーム性そのもの、プレイヤーの自己判断部分が皆無になってないか」という皮肉が描かれている。バナナを手に入れること自体が面白い、それが目的ならば、自販機を使うのが一番楽ではあるけど、その分対価も必要になる。しかもこの自販機、良く見ると、ボタンすらないんだよね。その点も皮肉が効いている。

まぁ、プレイヤーの需要、さらには遊びそのものが「プロセス」から「ゴール」に変わりつつあるというところなのかもなあ、と思う次第。時間が無い、面倒くさい、考えるのが苦手、創り手側の「プロセス」が独りよがりすぎて一般には受け入れられにくくなったとか、原因は多種多様に及ぶんだろうけど。これって結局、最終的に行き着くのは、「テレビ視聴」と同じじゃないかな、とも思ったりする。

発想力、思考能力のトレーニングという観点では、プロセスを体験するってのは、とても大切だし、ゲームの有為性の重要な点でもあるんだけどね。

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このページは、不破雷蔵が2014年6月21日 06:59に書いた記事です。

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