↑ 平等感を悪用した搾取の方法
詭弁的手法の一つとして、平等感、公平感を悪用し、ゼロの立場にある状態を引き上げるというものがある。分かりやすい事例で図解にすると上の通り。
元々権利の無い人が権利を有する人に対し、所有権を主張する。本来なら単なる言いがかりに過ぎず無視して問題ないはずなのだが、状況によって、あるいは周囲の雰囲気により、これが通らない場合がある。実体としては所有権は確かなものなのだが、事実を(十分に)知らない第三者からは単なる所有権の争いにしか見えず、喧嘩両成敗だ、バランス感覚が必要だ、平等公平さが必要だとの意見がなされ、結果として元々所有権を有していた人が、言いがかりをつけた人に「平等」の名のもとに配分をしなければならなくなる。
正当な所有権を持つ人は過失が無いにも関わらず持ち分を半分に減らし、所有権がない、言いがかりをつけた人は、周囲の「平等」感の支援のおかげで、まんまと半分の分け前を得られることになる。
これが例えば不動産や店頭に並ぶ商品ならば、このような不条理は通らない。新築住宅の前で突然「この家は私のものだ」と大騒ぎしても無視されるだけ、最後には警察に連行されて事情聴取を受けることになる位。しかしこれが上記の図例のように、子供の間のお菓子のやり取りだったらどうだろうか。あるいは所有権などといった立ち位置が明確でない、世の中の出来事や事象、論調だったらどうだろうか。
本来事実であるはずの、正しいはずの物事が、「バランス感覚」「平等」の名のもとに、事実でない、正しくない物事と同列視され、第三者から同じように扱われてしまったら......。その場合、本来確からしさでは「1」を持つ物事は「0.5」扱いされて、同時に虚実に近い、確からしさでは「ゼロ」を持つ物事が「0.5」の評価を得てしまうことになる。
いわば「悪平等」の結果による事態といえるのだが、この切り口は案外多くの事例で見受けられる。昨今ではその疑わしさ、非科学的表現で問題視された「美味しんぼ」の3週に渡る短期集中連載「福島の真実編」で、その最後の回においてスピリッツ編集部が行った、「ご批判とご意見」の列挙とそれに関わる「編集部の見解」。
そのコーナーで、作品に対する批判や意見という大義名分のもとに、「正当な研究や論調をしている先生諸氏」と、「非科学的、あるいは妄言的、さらには自らの主義主張を広めるために事象を悪用している諸氏」とを同一のテーブルに並べ、同じ立場にあるかのように表記してしまった。さらに「編集部の見解」では諸氏の語る内容の事実性、その背景にあるものを無視し、まさに「バランス感覚」的なセンスのみで平等に扱い、結果として読み手に「これらの人たちの語ることは皆同レベルのものです」という印象を与えてしまうこととなった。
これは「正当な研究や論調をしている先生諸氏」にすれば失礼極まりない話に他ならない。この切り口では、上の解説図版において「平等、公平」などと語る側も、言いがかりをつけるサイドにあると見て良い。要はゼロの立場にある味方の立ち位置を引き上げるために、「バランス感覚」という大義名分を悪用したのである。
「このような意見もある」「こういった話も見聞きされる」。それ自体は事実かもしれないが、その内容が事実とは限らない。呈された話の内容すべてが事実であるわけではない。その点に注意しないと、「悪平等」のワナにはまり、事実への評価を落とすだけでなく、ウソ偽りの内容に評価を与えてしまうことになる。
丹精込めて創られた果汁100%のジュースと、合成着色料だけで作られた粗悪品のジュース。後者を売る人が「どちらもジュースだから」と両者を混ぜ合わせて差し出したら、あなたはどう思うだろうか。あなたは知らず知らずのうちに、そのジュースを飲んでいるのかもしれない。
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