↑ 大声で騒げは皆が注目する。言葉にもそれに近い働きを持つものがある
最近ちまたで「集団的自衛権」に絡み、「徴兵制」や「軍事大国」、挙句の果てには第二次大戦の軍事的独裁者の「ヒトラー」や召集令状に該当する「赤紙」の名前を持ち出し、「若者が前線に」とまで断じ、大きな声を挙げてヒステリックに論調を展開するのが流行のようだ。それらは概して注目を集め目に留まり、目を通されている感がある。
しかしこれは多分にセンセーショナリズム的な手法によるもの、さらにいえば煽動主義、イエロージャーナリズム的なものとして見ていかねばならない。「集団的自衛権」そのものに関しては一次ソースにあたる内閣官房の公式ページ中の【安全保障法制の整備について】の全文、さらには【「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答】を読めば、読解力を常識レベルで持つ人ならば、一部で騒がれている、注目されている論調の内容が、誤解や意図的な誤認・誤解釈を含めた拡大解釈に過ぎないことが理解できる。中には「拡大解釈をするな」という論調そのものが拡大解釈をしているのだから、支離滅裂ですらある。
では何故、冷静に判断すれば切って捨てる内容のものでしかない、これらの論調が注目を集めているのか。それは分かりやすく目立つ、そして危機感を覚える言葉で飾られているからに他ならない。広告論的な手法を悪用したとも表現できるし、イエロージャーナリズム、雰囲気で煽り立てる手法ともいえる。
とにかくネガティブな方向で印象深い言葉を使い、該当する事象に注目を集めさせ、さらに同意を得させたい。それが精査すれば論理的に破たんしているものでも構わない。雰囲気的にそれとなく同意を得られれば良いのであり、雰囲気的に同意できる人だけでも誘導できれば勝ちなのだから。その観点ではある意味、「集団的自衛権」から一連の煽りを成して軍事大国や徴兵制に飛躍する論理を展開している事例については、その聞き手をも馬鹿にしてることになる。何故なら「どの道論理的に破たんしてても、騒いで伝えれば信じ込んでしまうだろう」という思惑が見えてくるからだ。
なぜネガティブなものか。人は生存本能の上で、ネガティブな情報にはより敏感に反応するからに他ならない。自分にとって生死に関わりうる情報に敏感で無ければ、命を失いかねないからだ。いわば本能のようなものだろう。
「徴兵制」一つを挙げても、第二次大戦当時まで、あるいは一部新興国での戦いならばともかく、近代国家においては、それが無意味で、非論理的な仕組みでしかないことはすでに明らか、というよりは事実として存在する(【私に説教するなんぞ〇〇年早いのでは?】)。軍事力拡大というイメージのために「徴兵制」という言葉を持ち出す時点で、前世紀的な発想でしかないことを露呈しているようなもの。あるいはそれこそ「ゲーム感覚」なのかもしれない。
ではなぜ、何度も何度も「徴兵制」という言葉が悪用されるのか。それはひとえに「言葉のインパクト」「イメージしやすさ」にある。また、シニア層で実体験した人が多いのも一因。連想ゲームのように、パッと聞きでは分かりやすそうな言葉を並べ、「なんだか軍事的な感じの言葉だな、集団的自衛権って」「軍事大国化するっぽいっていってるからそうなのも」「軍事大国っていうと徴兵制だよな」「徴兵制? 学徒出陣のように若者が前線に」という具合である。
この「正しいか否かは二の次」「連想しやすい」「分かりやすい」言葉で攻め立てる方法は、以前【「分かりやすい」イコール「正しい」ではない】で注記したことにもつながる。分かりやすい内容だからといっても、それが正しいものである保証はない。むしろ間違っている内容を広めるために、あえて分かりやすくしている事例も多々あるのが現実だ。
「良く知られている」「恐怖感をあおる」「関連性がありそうな」言葉を使って人を恐怖させ、煽動する。「集団的自衛権」に絡んだ一件では、非常に分かりやすい事例に他ならない。SF商法や悪質な新興宗教では日常茶飯事的に行われている切り口ではあるが、それだけに、あまりにも典型的すぎるパターンの繰り返しでしかない。
「集団的自衛権」関連の話では、こんな例えがある。
「集団的自衛権を認めたら戦争が起こせる」ってのは「共学に行ったら彼女ができる」並に発想が短絡的、っていう例えの適切さヤバい。
— がく (@16go_rider) 2014, 7月 2
「徴兵制」「軍事大国」「ヒトラー」「赤紙」「若者が前線に」などと連鎖的に語り危機感をあおる論評ならば、それこそ
ぐらいの短絡的ヤバさといえよう。
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