ああそうか「原発止めても電気足りたじゃないか!」とかいう人って、「これ以上御社の意思決定が遅延すると納期間に合わないっす」って言ってようやく決めてくれて、3連徹2セットで納品にこぎつけた僕に「間に合うじゃん、まだ時間あったんじゃないの?」って言い放った昔のお客さんと同類の人なのか
— rassvet@みそ+1 (@rassvet) 2012, 9月 6
上記の話がツイートされたのは今から2年前の2012年9月6日。これがなぜか先日公式RTされてきて、それではっとなったのが今回の件。先日の【電力周りの「自称」ジャーナリストによる「非難」で想う「ララァ、人は全然変わっていかないよ」】でも触れた、電力需給問題で「足りる足りる」云々言われる方々の主張は全然変わらないけど、どうしてなんだろうなあ......という頭の中のもやもやが、ちょいと晴れた感があった。
で、そこからさらに色々と話が頭の中でつながっていく。電力需給で「足りる」と強弁する意見に強い、今件ではとりわけフルスロットル的な強い嫌悪感を覚えたのは、この「無茶なクライアント」と同じ考えであり、それはここ数年特に注目されている、「生活保護の問題」とも根が同一なんだということに気が付いた。
少しでも余裕が「あるように見える」と無下にバッシングされる、余裕があると非難される。構造が同じなんだな。そして叩く側の多分は、対象となるものの実情も知らず、あるいは知っていても知らないふりをして、見える部分だけ、叩けそうな部分だけを抽出して、それを全体像と差し換えて、ドヤ顔で、正義の剣を振りかざす。構造的に同じ。
そして「常に生死をさ迷うような状態を続けろ」「もし命を落としてもそれはお前らの責任だ」という生活保護に対する主張の点でも同じ。「常に電力需給はギリギリな状態を続けろ」「もし電力不足でトラブルが起きてもそれはお前らの責任だ」。......まるでコピペのような類似性。
これらの類の考えはある意味、人間の本質として誰もが持っている、そしてそれを理性と知識で押さえつけねばならないタイプの本能の一種かもしれない。だからこそ、さまざまな対象に向けて、類似性の高いバッシングがなされるのだろう。
「電力関連の需給問題」と「生活保護問題」。突き詰めると同じ考え方による、卑劣なバッシング。そして多分に本能による反応。だからこそ、数理的に、理知的に説明し、諭しても、事実を認めようとせず、逆切れしてしまうのかもしれない。本能は多分に感情論につながり、それは「自分の考えを否定するものは自分自身の否定と同じなので、決定的に排除せねば」という、無条件の、さらには自分の生存をかけたように認識してしまう反応によるものだからだ。
生存本能だの感情論だのはともかくとして、「電力関連の需給問題」と「生活保護問題」の類似性、根の同一性は、誰もが理解できる話であり、それどころか双方の問題への理解を容易にするもの。しかし一見まったく別物のように見えて、こういうつながりがあったとはねえ......。
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