朝日新聞の「訂正文」に関する所感、最大のポイントは「間違いの認識」と「謝罪の認識」の違い

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...ということで先日から色々と取り上げている朝日新聞の「誤報」問題。なぜこのタイミングでとか色々と突っ込む要素はダース単位であるんだけど、一番の問題を先日ツイートしたのでまとめ&補足。ウェブ上の記事では無く、全体の要旨として紙媒体の新聞に掲載された関連記事全体として、という意味で(結局、そちらが本心全体だからね)。


最後にメンションのあった面堂のポーズがまさに適切なイメージカットで、状況的には実はこれですらない(訂正しただけで「悪い」という明確な認識を表明したわけじゃないからね)。このような態度をした相手が、同じようなことを再び繰り返さないと、誰が確証をもてようか。

加えるなら、今件ではマッチポンプ的なものが多分にあるにも関わらず、それに係わる言及もないどころか、自らも被害者であったかのような表明をしているのも気になる。いわく、


というところ。

...まあ、あれだ。自らを「クオリティーペーパー」と称していた時期の大部分において、このようなことをしていたことが明らかになった以上、「勇気ある告白、判断」だけで終わり、というのは、やはり違うよなあという感は否めない。場合によっては例の「椿事件」以上の問題として提起され、各方面での対処が必要になるのではないかな。

仮にも「文化」を自称する媒体の、超大手であるのならば。

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このページは、不破雷蔵が2014年8月 8日 06:03に書いた記事です。

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