「報道の自由」とは、前世紀、人々を圧政による苦しみから開放するために打ち立てられたものだった。
現代において一部のメディアは、「報道の自由」を楯に人々を苦しめる立場に回っているような気がしてならない。
— Masahiro Ono (@masahiro_ono) 2014, 8月 6
記事タイトルは「盾」を意味する「たて」と、「便益と成すもの」を意味する「ため(為)」をかけた、掛け言葉的な言い回し。報道が得てして人々、民衆向けの媒体であり、そちらを向いている存在として存在意義があり、それを読者足る民衆自身も支持をしたのは、この指摘のように「圧政による苦しみから解放」(元は「開放」とあるけど、まぁ、同じような意味合いってことで)する手立てとなり得たからというのが一因。だからこそ、言論の自由、報道の独立性は重要視される。
ところが指摘にもある通り、すべてがすべてではないけど、一部メディアはその「報道の自由」という大義名分を盾に(当方がよく使う言い回しなら「オールマイティカード」「免罪符」)、逆に人々を苦しめる立場に回っている感はある。なぜそんなことをする必要があるのか。一部の人々の便益のため、あるいは自分達自身の権益のため、プライドを守るため。先の「朝日新聞による一部誤報宣言」の話も、これに属すると見ても問題は無いかな。
この「報道の自由」という「盾」は、使えば使うほど擦り減っていく。昔は自分達を守ってくれた民衆によって修理され増強され堅甲なものにアップグレードされてきた。しかし昨今ではその使い方を誤る事例が増え、少しずつ修復する人は減り、むしろその盾で守ってきた人たちをぶん殴ってさらにすり減らし、修復しようとする人達を減らしている始末。「過去の業界関係者やそれらを支持してきた人たちによる貯金を、なりふり構わず食い散らかしている」、そんな感じがする。
あるいはこれも幾度となく指摘しているけど、「自由」と「自由奔放」との違いを学んでいない、学ぼうとしない悲劇の結果が現在進行形で進んでいるのかもしれないね。
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