「江戸しぐさ」を現実のものとして信じるのは「ニンジャスレイヤー」を正史として信じるのと同じ。エンタメとして楽しむ分には素晴らしい話だが、それを事実として認知・頒布するのは良く無いお話。ドーモ、エンタメはエンタメとしてタノシムのがイチバン! イヤーッ!
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 8月 9
以前にも何度か取り上げたけど、個々の慣習としては存在していたかもしれないし、その内容も礼儀作法の類でそう悪い話のものではないんだけど、それを体系化して経典化したようなものが存在し、江戸時代の秘儀として伝承されてきた云々っていう、いわゆる「江戸しぐさ」を事実として信じ、それを他人に伝えるのはどういうことなのよ、ということでちょいと考えたたとえ話。
エンタメ作品として超一線級で素晴らしい魅力を有して多くの人のハートをとらえて離さず、数々の言い回しが定型文的な形で語られるようになった「ニンジャスレイヤー」。でもそれを楽しめるのは、それがエンタメだと認識し、創作物であることを皆が知っているから。その内容が日本の事実であり、ソウカイニンジャの存在やらナラクニンジャやら何やらを実在するものとして信じている人はいない。だからこそ、仮想の世界を楽しめる。
ところが「江戸しぐさ」では、その作り話的なものを実在したものとして押し通そうとしているから困ってしまう。多分に「その方が自分達の勢力拡大、懐充実に役立つから」という思惑があり、また「伝えている個々の中身は礼儀作法などで良い事だから、別に設定は嘘でもいいじゃん?」的な大義名分を自分に与えている部分もあるんだと思う。でもウソで塗り固められた土台の上に作られた話は、その土台が崩壊するとすべて崩れてしまう。上に乗せられている一つ一つが真実、正しいものだとしても、前提が崩れてしまうからね(このあたりは科学実験ではごく普通の話)。
だから「江戸しぐさ」を本物の話だとして推奨する場面には、「ニンジャスレイヤー」を事実として伝えるのと同じレベルよ?? として教え諭すのが、一番分かりやすいかもしれない。
ニンジャはいない。いいね?
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