「記者の萎縮や自主規制を防ぐ」という無敵の免罪符は必要か

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先日8月5日付で朝日新聞が公知した、いわゆる「吉田証言」の内容が虚偽だったとすることを32年ぶりに認めた「8.5.事件」。これに関して日本報道検証機構などが提案として、報道機関に対して適用すべき新ルール的なものを提案している。まぁ、なかなか良さげなことを書いているような雰囲気はあったんだけど、よく読んでみると現状に即したものとは言い難く、網の目が5センチほどのザル的な感じ。


「こういうルールを作るから勘弁してね、今まで通りのルールで通してね」という思惑がズギャンと見て取れるんだよね。その結果が現状を招いたのであり、それをより良い方向に軌道修正するにはどうすればいいのかという話であるはずが、いつの間にか論旨のすり替えを生じている。


印象的にこのような表現が出てきてもおかしくは無いし、半ば以上そんな感じで、その特権を削られたくはないとしての「提案」にしか見えない。


結局はそういうことなのよね、実のところ。朝日新聞自身はもちろんなのだけど、報道関係そのものの危機感が薄いという雰囲気は強い。なんというのかな、これまで多数の人たちによって築かれてきた「報道の自由」「報道の信頼性」という貯金を、一方的にガツガツと食い荒らすばかりで、積み立てていくつもりはまったくないように見える。で、財布の底が見えてきたので、慌てて節約をする、蓄財をするふりをしている、でも散財は今まで通り続けたい、......みたいな。

そもそも論として「誤報」と「捏造」の区別も曖昧なままじゃ、すべてを「誤報」側に放り込んでしまうのは目に見えているのだけどね。

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このページは、不破雷蔵が2014年8月27日 07:57に書いた記事です。

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