有効に機能していない社員なんかバンバン切れ、いい歳こいて生存スキルのないやつは自己責任という、ちきりんみたいな意見は、水が干上がりかけた池の水生生物に陸地で生きられるよう進化しろと言ってる残酷な話なんだけど、目の前で首吊りや飛び込みを見てみろと言いたいときがあるね。
— えぼしセンパイ (@hubbledf) 2014, 9月 2
ちょっと前の「公開処●」的な意味での「仕分け」でもつくづく思った話の、ちょっと視点を変えてのお話。上で語られている「有能に機能していない社員は切れ」という考え方って、即戦力重視とか、人材育成の軽視とか、さらには若年層の切り捨てにもつながってくる発想なのよね。その時点時点のみの能力で勘案すれば、そりゃ経験豊富で能力のある方に旗を上げるのは間違っていないけど、中長期的に考えるとその人がいつまでも生きている・能力を維持しているわけではないから、次第に行き詰る。企業はゴーイングコンサーン(永遠に継続する)のポリシーで運用している、生き物であることを忘れちゃいけない。上の例えなら水生生物全体を囲って生きる環境においた上で、進化をうながすという形で無ければならないわけね。一定以上の企業ならば。
まぁ、上の方法でも進化する場合もあるだろう。でもその量は絶対的に少なく、必ず先細りする。で、仕組みそのものが回らなくなるので、数を補充するためにスキルの低い、経験の浅い非正規社員をあてがうと、リスクが高くなる......どこかで、沢山の場所で見たような構図。子供の教育、育成と同じ位企業では大切な「人材育成」に評価が与えられなければ、誰も手をつけないのは当然のことだけど(この傾向は前世紀末の「実績主義」から転じた流れ。目に見える営業成績を評価するあまり、数字には表れにくい、長期的な視点で初めて価値が分かる後続の教育を誰も積極的にやらなくなった。だって評価されないんじゃ、リソース投入しても損だし、下手すりゃ怒られる)、それがもたらした弊害ともいえる。
視力障害の先生の障害者の権利の講義を思い出す。
「もし私が知事になったら不要だから夜間の街灯を排除しますよ。電気代浮くし。皆さんは困るでしょう。私は困らない。皆さんの意見が通るのはつまるところ皆さん『健常者』が多数派だからに過ぎない。障害者問題はマイノリティ問題なんです」
— 帰ってきたししジニー (@jiny3jiny34643) 2014, 9月 2
我々がマイノリティの権利に配慮しなければいけないのは、いつ我々がマイノリティになるかわからないからだ。
自己認識が多様化し重層化する今の社会においては、人間はある時いとも簡単にマイノリティになる。
#肚に落ちたよ先生
— 帰ってきたししジニー (@jiny3jiny34643) 2014, 9月 2
ここで指摘されている「マイノリティー」の話もそう。結局、誰が「不要」だと判断するのか、その判断は正しいのかってことなのよね。偏った、視点での「不要」の烙印は、その視点での効率化という観点では正しいかもしれないけど、一歩引いた上で考え直すと、思いっきり大きな損失になることもあるし、間違いだったということもある。
「不要だから切れ」。そう判断すること自体は案外簡単。ただ、実行する際、その判断は本当に正しいのか、客観的な視線で見直すことが必要なんだろうね。
そしてもう一つ、後者の話において。電力需給関連で「エスカレーターは要らない」「地下鉄の灯りなどもっと暗くても良い」などとインフラ周りで声高に語った人は、自分自身が健常者であったことを感謝すべきであるってことを、再認識すべきではないかな......ってそういう発言をする人は、そもそもそんなことを考えるはずもないか。
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