青少年に差別や偏見の話をすると、過保護すぎるオトナが様々な理由を持ち出して来る。過激なので彼らには早いとか。悪影響になるとか。知らない方がいいとか。自分の経験上、中学生や高校生はもう十分身に染みるほど差別や偏見を体験している。説明をするのは知識を与えるということ。知識は人を守る。
— キャシー (@torontogay69) 2014, 9月 19
以前から色々と論議されている、「培養育成、無菌室での育成」は適切か否かという話。これも結局ケースバイケースという話に落ち着くんだろうけど、その判断をするのが面倒くさい大人陣営がゼロかイチかでシンプルに区分けし、面倒が無いようにゼロの方を選んでしまうというのが現状ではないのかな、という感じ。知らせなければその対応をしなくても済むからねえ。
ただ、そういった「差別」「偏見」が世の中に存在しないわけではないので、大人になると必ず何らかの形で触れることになる。その時に接触そのものが未体験、あるいは対応をほとんど教えられていない場合、パニックに陥ったり過剰反応を起こしたり、間違った選択をしてしまうことになりかねない。
一方、指摘の通り、「差別」「偏見」の概念に当てはまるような状況・行為について、実は子供の時分から経験はしている可能性も十分にある。ただしそれを「差別」「偏見」として、良くないことであるとの認識を、しっかりと認識していない可能性は多分にある。概念として知らないのだから、それが何なのか、どのような対応をすべきなのかを知識として持ち合わせていないのだから、当然の話。だからこそ、大人が啓蒙教示して教える必要がある。
例えばお腹が減った時にご飯を食べる。これは本能的な行動。ただ、食べる前に「いただきます」と挨拶をしたり、ハシやスプーンやフォークのような道具を使って行儀よく食べ、手づかみで平らげるようなことはしないってのは、保護者が見本を見せたり教えて覚えさせないといけない。要は「差別」「偏見」についても同じなのよね。
これはインターネットや携帯周りの知識、道徳的概念とも共通する部分がある。けれど食事の仕方と違い、そして「差別」「偏見」同様に、多分に「大人になってから」「まだ早い」として避ける傾向がある。これは「大人自身が良く知らない、教える程の知識がない」「面倒くさい」という真の理由があるから。インターネット周りの話はもちろんだけど、「差別」「偏見」についてしっかりとその概念や、どうしてしてはいけないのかまで教えられる保護者はどれほどいるだろうか。
一部地域の学校で、教師勢がAEDの導入を頑なに拒んだという話で、その理由が「覚えるのが面倒」「責任取るのは嫌」というものだったってのは逸話としてよく知られているけど(大義名分は別の所にあるけど)、それと同じなんだよね。言い換えれば、大人の怠惰を、子供の責任として押し付けているということ。
さらにこんな指摘もある。
@Fuwarin >概念として枠組みをしっかりと持っていないから。だから大人が啓蒙教示して教える必要があるのよね
「臭いものに蓋」は弊害のが大きいと思う。世の中のほんとの部分はえてして鍋の中にある。性教育もそう。教えないメリットとデメリットを比較すればいい。
— たぢ (@Tadikko) 2014, 9月 20
インターネットはともかく「差別」「偏見」に関しては、この「臭いものにはフタ」の発想の方が多分にあるのかなあ、という気がしないでもない。
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