「新聞、マスコミは事実を淡々と伝えればいい」というよくあるご意見自体はまさにその通りで、何の異論もありません。ただ、特に政官が出す「事実」には誇張や意図的なミスリード、時にはウソも混じることがあるもので、それを見抜く批評的視点も同時に必要なのです。
— 小松田健一 (@kenkoma) 2014, 9月 21
まずは事実をありのままに伝え、それが物理的・時間的に難しいのなら正しい事を端的に伝えるのが報道の姿。以前も触れたけど、プレスがプレスであるための最低限必要な条件であり、そこに論説なり自社や記者の意見が多分に混じって事実がよじ曲げられる、あるいは別の表現になると、それはオピニオン(論説)になってしまう。「分かりやすい」=「正しい」ならば問題ないのだけど、「分かりやすい」≠「正しい」という事案が山ほど暴露されているのが一連の騒動の本質的問題。
そしてオピニオンをプレスのように語るのは、インスタントラーメンを生ラーメンと称して売るようなもの。そのような詐称行為が繰り返される事案が発覚したから問題視されているにも関わらず、その根本的な部分の理解が出来ていない現場の方々は数多い。今回もまたそのような話。
経験則から言うと、政治家、官僚ともにヨイショ記事しか書けない記者はバカにしますよ。表面上は有り難がっていてもね。
— 小松田健一 (@kenkoma) 2014, 9月 21
政府高官が本当に読売新聞だけを読んでいればいいと発言したならば、心ある読売の記者はすごく屈辱感を覚えたはず。「お前らは全然怖くない」と言われたに等しいから。
— 小松田健一 (@kenkoma) 2014, 9月 21
分かっているようなそぶりをしているけれども、残念ながら根本部分で理解が出来ていないのが残念な所。まぁ確かに一誌のみを読んでおけば良いというのは問題だけれど、相対的な意味でと考えれば全否定もできない。あるいはさらに皮肉的に「どのみちどの新聞でも内容的にはどれも似たり寄ったりで中身の真偽性は疑わしいのだから、最大部数の読売新聞をチェックして参考程度にしてりゃいいんじゃね?」的なニュアンスもあるのかもしれない。
で、まあ当然ながら色々とつっこみ出てくる。
これみて、あー紙の新聞、テキストだけの記事は近いうちに需要はなくなるんだろうなと思うわ。 官僚テキストは新聞屋パスになるだろうし、政治家のコメントも動画の方が良いって事になっちまうし。 新聞屋の主観なんぞ誰が欲するか、タコ。
— 御神楽 舞 (@mikaguramai) 2014, 9月 21
疑われているのはその「批評的視点」の精度だという認識はありますか?あと、それ以前に朝日新聞が時の権力と癒着して捏造記事を書いたことにより「権力の監視ガー」などという建前自体にミソがついて業界全体の存在意義が疑われかけている、という認識はおありですか? RT @kenkoma
— hameln (@hameln) 2014, 9月 21
タコか否かはともかくとして(個人的にタコは生系はダメだけどたこ焼きは好き)。今回の朝日をはじめとする問題の一つに、「主観」という名前の「情報ノイズ」があまりにも大きすぎたという点に現場の一部が気が付いておらず、むしろそれを誇りにすら思って、大っぴらに主張するあたりにあるのだよね。根は深そう。
そしてプレーン(素)の情報が読者から求められている現状を、その意味を、一部の現場新聞記者の方々が理解されていないこともまた事実。記者による解説が適切ならば、読者はプレーンの情報など要らない。解説が信用ならない事案が繰り返されているからこそ、致命的な事案が相次ぎ暴露されたからこそ、プレーンなものがより一層求められている。
つまり、料理人がお客の信頼を失ったようなもの。「お前の作った料理はもう信用ならん」とお客が三行半を突きつけたようなもの。
ちなみに、紙の新聞の需要は残ると思う。紙の書籍同様に。ただ、今よりさらに相対的な立ち位置に置かれるのは間違いない。うーん、むしろ提供媒体よりも、そこに書かれるコンテンツそのものの質が......って、そうか、今はそのコンテンツ自身に懸念が生じているのか。ややこしい。
とまれ。幼いころからデジタルに慣れている、いわゆるデジタルネイティブな世代は、紙とデジタルの違いやこだわりをあまりもたない、デジタルが当たり前と認識している面が多いので、時代と共にデジタル「の方がいい」という人は増えて来る。
紙の方が良い、デジタルの方が良い、ではなく、ケースバイケース。そのケースの選択肢としてデジタルが加わる。ただそれだけの話。スマホが浸透しても従来型携帯電話が無くならない。それと同じ......というと飛躍過ぎるかな。そして今件は媒体云々ではなく、その中身の信頼性が問われている。その点がちょっとぶれて問われがちなので、気を付けなきゃいけないな。
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