朝日新聞支局長大いに語る「犠牲者のひととなりを公知するのは親近感を持ってもらうため」「晒しではない」「報道は本質的に余計なお世話」

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先の【御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの?】でも言及した、御嶽山の災害による犠牲者のプライバシーというか個人的な情報の公開に関するお話。各社とも横並びでお涙ちょうだい的な状況となり、当然反発もあちこちから上がっている。

一方でテヘラン支局長という重職についている朝日新聞記者の方がこんな開き直り的な発言をして、当然のことながら多種多様な反発的反応を受ける。状況を理解していないのか、と思われても仕方がない。そしてさらに......


と、先の記事でも指摘した、2013年のアルジェリアでの人質事件における問題(【毎日新聞社会部長を務めた小川一さん(pinpinkiri)の、アルジェリア事件犠牲者を実名報道するべきだという意見とその反応】)とまったく同じ論旨・発想で、自分らの行動に全く非は無いとの主張。その発想であのような記事展開をしているとなると、それはすでに報道ではない、報道の領域を超えた何かになっていると思うのだけどね。「余計なお世話」ってのは「余計」だけど「お世話」を意味するのであり、今件は「余計な事」でしかないんでは? そして最後の「亡くなった方の云々」ってのは、自身らの行為の正当化のための詭弁でしかない。

見つめることが報道だとしても、それを第三者に公知することまでは定義してないでしょ? 見つめるだけなら記者陣内部で見つめればそれでいい。それを不特定多数に暴露する必要はない。見つめる行為は第三者が判断することで、その部分は本当なら「読者、視聴者に見つめさせることこそが報道です」と書かなきゃならない。でもそれを書くと、自らの傲慢さが露呈されているから、あえて書き方を変えたのではないかな。それと「人生とは云々」ってのは一記者の主観、想いであり、それを報道倫理全体に当てはめることは、暴挙にも等しい。宗教観的なモノを持ち出して報道を語る時点でアウト。


先のアルジェリアの件といい、2つの吉田問題といい、企業特許に係わる誤報道の件といい、今件の「ひととなり報道」への報道サイドの弁明・説明といい、どうも全般的に報道に携わる側の「選民的、エリート意識」と、それに追いついていない「実質的な質の低さ」あるいは「虚構の実力」という、アンバランスさが見えている気がするのよね。金属疲労を起こしているような香りがする。たちの悪い悪質新興宗教の所業にすら見えてくる。「核心的利益」を教祖に据えた。

あるいは当方の思い込みなのかもしれないけれども。

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このページは、不破雷蔵が2014年10月 6日 07:20に書いた記事です。

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