安易な「お涙頂戴」はもうウケないと思うんですね。これはもうマスコミの悪しき慣習としか...
御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの? http://t.co/G3tSipZa8R pic.twitter.com/NUww9QIMhG
— neologcutter (@neologcutter) 2014, 10月 5
「晒される」ことでしばらく連絡を取っていなかった親族や知人の不幸を知る人もいるでしょう。そう思って粛々と書くことに尽きるのでは。批判があればそれは甘んじて受ける。
— 神田大介 (@kanda_daisuke) 2014, 10月 4
先の【御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの?】でも言及した、御嶽山の災害による犠牲者のプライバシーというか個人的な情報の公開に関するお話。各社とも横並びでお涙ちょうだい的な状況となり、当然反発もあちこちから上がっている。
一方でテヘラン支局長という重職についている朝日新聞記者の方がこんな開き直り的な発言をして、当然のことながら多種多様な反発的反応を受ける。状況を理解していないのか、と思われても仕方がない。そしてさらに......
多数、同様のリプライをいただいております。これは私個人の考え方ですが、人となりを書くのは、親族でも知人でもない圧倒的多数の読者の方に、亡くなった方への親近感を持ってもらうためです。死者をデータではなく生身の人間として感じてもらうためです。
— 神田大介 (@kanda_daisuke) 2014, 10月 4
余計なお世話だという批判はあるでしょう。ですが、報道というのは本質的に余計なお世話です。たとえば私はテヘラン支局長ですが、大多数の日本人にとって、イランという国で何が起きてどうなろうがあまり影響はない。ただ、この国にも命を受けて生きている人がたくさんいるというだけの話です。
— 神田大介 (@kanda_daisuke) 2014, 10月 4
亡くなった方の人となりを書くことが「晒し」であるという論調には、私は断固として反対します。人の生と死を見つめることこそが報道です。そもそも人生とは、生まれた瞬間から世間に「晒されて」いるのではないでしょうか。
— 神田大介 (@kanda_daisuke) 2014, 10月 4
と、先の記事でも指摘した、2013年のアルジェリアでの人質事件における問題(【毎日新聞社会部長を務めた小川一さん(pinpinkiri)の、アルジェリア事件犠牲者を実名報道するべきだという意見とその反応】)とまったく同じ論旨・発想で、自分らの行動に全く非は無いとの主張。その発想であのような記事展開をしているとなると、それはすでに報道ではない、報道の領域を超えた何かになっていると思うのだけどね。「余計なお世話」ってのは「余計」だけど「お世話」を意味するのであり、今件は「余計な事」でしかないんでは? そして最後の「亡くなった方の云々」ってのは、自身らの行為の正当化のための詭弁でしかない。
見つめることが報道だとしても、それを第三者に公知することまでは定義してないでしょ? 見つめるだけなら記者陣内部で見つめればそれでいい。それを不特定多数に暴露する必要はない。見つめる行為は第三者が判断することで、その部分は本当なら「読者、視聴者に見つめさせることこそが報道です」と書かなきゃならない。でもそれを書くと、自らの傲慢さが露呈されているから、あえて書き方を変えたのではないかな。それと「人生とは云々」ってのは一記者の主観、想いであり、それを報道倫理全体に当てはめることは、暴挙にも等しい。宗教観的なモノを持ち出して報道を語る時点でアウト。
実際『親族でも知人でもない圧倒的多数の読者の方に、亡くなった方への親近感を持ってもらうため』とか素で言えるその感覚が恐ろしい。自分への親近感をもってもらいたいかどうかはその人の意志によるのであって、メディアや記者が決めることじゃない https://t.co/JDoqZYqcg9
— akoustam (@akoustam) 2014, 10月 5
「亡くなった方は親族でも知人でもない圧倒的多数の読者の方に親近感を持ってもらいたいはずだ」「データではなく生身の人間として感じてもらいたいはずだ」って、死人に口なしとばかりに死者の意志を創作して構わないとする、その記者としての自分に対する思いあがりはどこからくるのだろうか。
— akoustam (@akoustam) 2014, 10月 5
死人に口なしで、その人の真意も確かめないまま(亡くなってるのだから確かめられなくて当たり前だが)、自分達の政治思想に都合の良い話を創作したから、大問題になったのが「吉田調書」事件じゃないのかね。
— akoustam (@akoustam) 2014, 10月 5
それ、報道機関の押し付けだと思うけどなあ RT kanda_daisuke これは私個人の考え方ですが、人となりを書くのは、親族でも知人でもない圧倒的多数の読者の方に、亡くなった方への親近感を持ってもらうためです。死者をデータではなく生身の人間として感じてもらうためです。
— 炒飯山師 (@Rasen_Gun) 2014, 10月 5
報道の使命だと言い訳しながら自分のやりたい自己満足のために記者と言う地位を乱用する人間が支局長?あぁやっぱり朝日新聞って駄目だな。 @kanda_daisuke 報道というのは本質的に余計なお世話です。たとえば私はテヘラン支局長ですが、
— しわすみ(タウイ民) (@shiwasumi) 2014, 10月 5
先のアルジェリアの件といい、2つの吉田問題といい、企業特許に係わる誤報道の件といい、今件の「ひととなり報道」への報道サイドの弁明・説明といい、どうも全般的に報道に携わる側の「選民的、エリート意識」と、それに追いついていない「実質的な質の低さ」あるいは「虚構の実力」という、アンバランスさが見えている気がするのよね。金属疲労を起こしているような香りがする。たちの悪い悪質新興宗教の所業にすら見えてくる。「核心的利益」を教祖に据えた。
あるいは当方の思い込みなのかもしれないけれども。
コメントする