個人的に「人となり」報道は被害者・加害者報道の両面で危うさあって、松本サリン事件での当初犯人扱いされたあの人の犯人としての「人となり」を新聞が報じて、それ何の意味あったんすかという疑問はある。そういう「余計な話」は週刊誌に任せてもいいと思うんだけど
— dragoner@C86金曜西く32a (@dragoner_JP) 2014, 10月 5
週刊誌と同じ事を新聞がする必要もなかろうて
— dragoner@C86金曜西く32a (@dragoner_JP) 2014, 10月 5
交通事故報道では名前や住所が出ちゃったあと起訴されずに釈放される場合があります。しかし釈放された事は全く報道されないで事故報道だけ残るという理不尽さ RT @gnewscom 御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの? http://t.co/8wVQ9YJyzy
— 炒飯山師 (@Rasen_Gun) 2014, 10月 5
先の御嶽山の噴火における犠牲者に係わる「ひととなり」報道に関して、報道サイドから色々と説明などが成されているけれど、その説明にも色々な疑問が呈されている。その指摘の一つがこれ。要は「余計な話」であり、今件のような被害者サイドのものだけでなく、加害者報道でも同様のリスクが発生しうるというもの。それ、新聞がリソースを割いてやることじゃなく、週刊誌のターンでしょ、みたいな。
この「新聞」と「週刊誌」の境界線、そしてテレビにおけるニュース報道とバラエティ番組の境界線があいまいになっているという指摘は思い返せば色々となるほど感を覚えるところも。
@dragoner_JP 週刊誌と同じ(正確には週刊誌と勝負してる)人達が新聞やニュースを作ってるせいという面もあったりします......報道期間内の「構造改革」の結果部署間の垣根が取り払われて報道部門とバラエティ部門の人材交流が進み、評価基準が統一された結果というのが皮肉ですが
— 二行緑 (@g255_twoline) 2014, 10月 5
それ以前はどうだったのか気になります RT @g255_twoline: 週刊誌と同じ人達が新聞やニュースを作ってるせいという面もあったりします......報道期間内の「構造改革」の結果部署間の垣根が取り払われて報道部門とバラエティ部門の人材交流が進み、評価基準が統一された結果というのが
— dragoner@C86金曜西く32a (@dragoner_JP) 2014, 10月 5
@dragoner_JP 昔は「速報のテレビ」と「調査報道の新聞」で、同じグループでも互いに喉元狙い合っているような状況でしたが、ワイドショーを制作していたプロダクションを報道に起用したニュースステーションが一人勝ちしてしまった結果、全部ひっくり返ってしまった感があります
— 二行緑 (@g255_twoline) 2014, 10月 5
@g255_twoline ニュースステーション! 確かに仰る通りかもしれません。あれの以前と以後でニュースがだいぶ変わったとされていますし
— dragoner@C86金曜西く32a (@dragoner_JP) 2014, 10月 5
@dragoner_JP 問題は、ニュースステーションの成功体験で、民放各局が報道とワイドショーの制作部門を軒並み統合してしまったことなんです。それまでニュース番組を見なかった層を取り込めたと各局が錯覚した結果、事実をありのままに伝えるスタイルへの評価が不当に貶められました
— 二行緑 (@g255_twoline) 2014, 10月 5
@g255_twoline 昼のワイドショーが90年代以降、めっきり減ったのもあるでしょうね。人員配置上、ワイドショーの人員と統合せざるをえなかった
— dragoner@C86金曜西く32a (@dragoner_JP) 2014, 10月 5
@dragoner_JP というよりも、報道部門にリソースを喰われた結果ワイドショーやバラエティの現場から人がいなくなったのが原因という気もします。このへん、どちらがニワトリでどちらがタマゴなのか判然としないのですが
— 二行緑 (@g255_twoline) 2014, 10月 5
@dragoner_JP で、一番の問題は、ワイドショー的に視聴者の興味を誘導するキャンペーン化が常道とされ、ワイドショー的な番組の造りが良しとされた結果、従来報道に必要とされた詳細な事実関係の確認や専門家への取材といった地道な制作活動が極めて軽視されるようになったことなんです
— 二行緑 (@g255_twoline) 2014, 10月 5
今の報道ステーション、もとのニュースステーションが「報道バラエティ」という形で報道とバラエティをごちゃごちゃにした、そして体面は報道という形の番組を作り、それが大成功を収めてしまったので、その成功体験が忘れられず、他局もそれも追随する形となった......ニュースステーションのあれこれを他所で調べても、また当時の他のニュース番組に係わる動向を確認しても、それを裏付ける話ばかりで、この指摘は多分に的を射ている。このスタイルなら「バラエティ」部分でテレビサイドが浸透させたいことを色々含ませて、しかも外見は「ニュース」、つまり事実のように語ることができ、特典も利用できる。先の記事でも触れた「プレス」と「オピニオン」のごっちゃ煮。看板はニュースで、中身はオピニオンみたいな、羊頭狗肉状態。
この「報道」と「バラエティ」をごっちゃにした話は、朝番組における「新聞早刷りを使ってニュースを披露して、それに関する意味のないコメントで時間を埋める」スタイルにも表れている。で、このスタイルってのも
@Fuwarin もひとつテレ朝は、朝番組での新聞/芸能スポーツ紙比較+コメントというお手軽フォーマットを広めたところでもあったり(´・ω・`) ...朝日系だらけ。
— matiere* (@matiere) 2014, 10月 5
@Fuwarin @matiere つまり、「自分の責任を回避しつつ、間接的に言いたい放題」フォーマットを確立したとも言えますか。
— 島風 那智 (@nachi_shi) 2014, 10月 5
という次第だったりする。要は電車の中づり広告のテレビ版というところなんだろうし、楽が出来ることには違いないのだけどね。語られるコメントの部分が弊害となるってのは、やはり問題。
やはり金属疲労的な状態に陥っているんだろうなあという実感。昨今次々に問題が出ているのは、結局元からの問題が暴露されているだけに過ぎないと見た方が正しいのかもしれない。
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