みんな言ってることだと思うけど、噴火で亡くなった人の人生や人柄を報道すべきではない。遺族の気持ちがどうのこうのではなく、情報として何の価値もないから。彼らはその時に山に登っていただけの人々。ただただ猛烈に運が悪かっただけの人たちだ。彼らの背景を伝えることに普遍的な意味はない。
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2014, 10月 6
先日の【御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの?】や【朝日新聞支局長大いに語る「犠牲者のひととなりを公知するのは親近感を持ってもらうため」「晒しではない」「報道は本質的に余計なお世話」】に絡んだお話として、やはり今件には色々と賛否両論(「やっぱり伝えるべきだ」というのは少数派に見える)があるけれど、色々とふに落ちた、納得させられたのがこの意見。報道の中には生き延びた人の体験談、こんな逃げ方をした、隠れてなんとか助かったなどの話も出てきているけど、それはまさに「価値のある情報」と判断できる。でも「被害者の人となり」はエンタメ的な観点はともかくとして、噴火災害情報としては何ら意味はない。
そもそもどんな事件にせよ被害者の背景を報道することにぼくは否定的だ。ただ、多くの場合、千歩くらい譲ると「問題の大きさを実感させる」「加害者の罪の大きさを訴える」みたいな大義名分がついてしまう。しかし、噴火は違うだろ。
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2014, 10月 6
「誰にでも起こりうることを示す」というのなら、火山に登る人の人数の統計をしっかりと調査して報道すればいいではないか。それは手間がかかり知性を要する作業だ。犠牲者の知人にインタビューしてさも気の利いた風の作文をしてその人の個性や人生を要約してみせる行為のなんと容易で安直なことか!
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2014, 10月 6
(もしそれで「全国的に報道されたことで、この人が生きた証となり、本人も遺族も報われるだろう」などと微塵でも思うマスコミ関係者がいるんだとしたら、どうか冷静になって、人の人生とは何か、マスコミが何かを考え直していただきたいと心から思う。)
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2014, 10月 6
せっかくだからもうちょっと書こう。
たとえばひき逃げの犠牲になった幼稚園児が「学芸会ではウサギの役をやった明るく可愛いクラスの人気者。クラスの子たちはみんな泣いている」という報道に接すれば、ぼくだって泣く。加害者や交通システムへの怒りに震える。
だけどそれでいいのか?
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2014, 10月 6
だったら、亡くなったのが「学芸会では背景の岩の役。休みがちで非社交的な子で、幼稚園に来なくなっても他の園児は気づいていない」のだったらひき逃げ犯の罪は軽くなるの? それは違うでしょ? ぼくらは同じくらいの怒りを覚えるべきなんだと思う。
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2014, 10月 6
要するに、この手の「被害者の人柄・人生の報道」というのは、本質的には不要なのに、マスコミ間の競争、ぼくたち視聴者・読者の感傷趣味、マスコミ関係者の思い上がり等々からエスカレートして存続しているものなのだと思う。
噴火などを契機に議論して、減らしていくことを考えましょうよ。
— Hal Tasaki (@Hal_Tasaki) 2014, 10月 6
最後のこれが肝「この手の「被害者の人柄・人生の報道」というのは、本質的には不要なのに、マスコミ間の競争、ぼくたち視聴者・読者の感傷趣味、マスコミ関係者の思い上がり等々からエスカレートして存続しているもの」 >>公式RT http://t.co/MU3UvEOW1v
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 10月 6
結局のところ伝える側にとって、コストパフォーマンスが良く(低リソースで高反応が得られる)、ある程度の大義名分(先に伝えたような「情報の浸透がされやすいかもしれない」「親近感を持ってもらうため」)も掲げられるという、消費型のドーピング薬的な立ち位置にあるんだろうな、というのが実感。「これこそが報道の責務だ」と自画自賛する考えが軸にあるので、悪びれた様子はなく、むしろ正義感に満ちあふれた形でやりこなしてしまう。これは上記のリンク先記事でも触れている、アルジェリア人質事件において、実名報道をした側が主張した大義名分周りの話とまったく一致する。「文化が違う」のような、ヒストリエ的イメージすら頭に思い浮かばれる。
先に伝えた、一部若年層における盗用コンテンツ問題と同じように、正しい物差しを持たない者による行動ってのは、物差しそのものが正されない限り、繰り返されることになる。なぜしてはいけないのか、ということ自身理解できないからね。今件の災害報道における、犠牲者の人となり周りのことも、結局記者、報道サイドでは「なんで悪いの?」的なリアクションが多数を占めており、非難に対してむしろ「これが俺達の正義だ」的な開き直りの部分があるので、状況の改善は無いのだろうなあ、という感はある。何しろ少なくとも、アルジェリアの件からまだ1年強しか経っていないし。
まぁ、自殺報道の話でも触れているけど(これも構造的には同じなんだよね)、結局体質的なレベルで金属疲労が起きちゃってるんだろうな、従来媒体の報道全体に。感覚がマヒしちゃっているというのかな。
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