御嶽山の災害、被害者の人となり報道は慎むべきという正論

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先日の【御嶽山報道、「遺族の人となりの紹介」って必要なの?】【朝日新聞支局長大いに語る「犠牲者のひととなりを公知するのは親近感を持ってもらうため」「晒しではない」「報道は本質的に余計なお世話」】に絡んだお話として、やはり今件には色々と賛否両論(「やっぱり伝えるべきだ」というのは少数派に見える)があるけれど、色々とふに落ちた、納得させられたのがこの意見。報道の中には生き延びた人の体験談、こんな逃げ方をした、隠れてなんとか助かったなどの話も出てきているけど、それはまさに「価値のある情報」と判断できる。でも「被害者の人となり」はエンタメ的な観点はともかくとして、噴火災害情報としては何ら意味はない。


結局のところ伝える側にとって、コストパフォーマンスが良く(低リソースで高反応が得られる)、ある程度の大義名分(先に伝えたような「情報の浸透がされやすいかもしれない」「親近感を持ってもらうため」)も掲げられるという、消費型のドーピング薬的な立ち位置にあるんだろうな、というのが実感。「これこそが報道の責務だ」と自画自賛する考えが軸にあるので、悪びれた様子はなく、むしろ正義感に満ちあふれた形でやりこなしてしまう。これは上記のリンク先記事でも触れている、アルジェリア人質事件において、実名報道をした側が主張した大義名分周りの話とまったく一致する。「文化が違う」のような、ヒストリエ的イメージすら頭に思い浮かばれる。

先に伝えた、一部若年層における盗用コンテンツ問題と同じように、正しい物差しを持たない者による行動ってのは、物差しそのものが正されない限り、繰り返されることになる。なぜしてはいけないのか、ということ自身理解できないからね。今件の災害報道における、犠牲者の人となり周りのことも、結局記者、報道サイドでは「なんで悪いの?」的なリアクションが多数を占めており、非難に対してむしろ「これが俺達の正義だ」的な開き直りの部分があるので、状況の改善は無いのだろうなあ、という感はある。何しろ少なくとも、アルジェリアの件からまだ1年強しか経っていないし。

まぁ、自殺報道の話でも触れているけど(これも構造的には同じなんだよね)、結局体質的なレベルで金属疲労が起きちゃってるんだろうな、従来媒体の報道全体に。感覚がマヒしちゃっているというのかな。

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このページは、不破雷蔵が2014年10月 7日 08:00に書いた記事です。

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