漫画で特に食べ物が描き込まれてなかったり、画面に食べ物が無いときも「おいしそう」って思うのは、やっぱり食べているキャラが美味しそうにしているからなんだろうなと検証。ほっぺたいっぱいにしてモグモグしてるといい感じだよね。 pic.twitter.com/OKJA9tpxwY
— p (@sotto_p_) 2014, 10月 7
普段は無意識のうちに読んでいるけど、一歩引いて普段読んでいる漫画などを詠み直すと、色々と気が付くことがある。何気なく「この作品は何だか惹かれるものがある」「これ、何となく薄っぺらいんだよな」という「なんとなく」な選別が、実は深層部分にある「気づき」の積み重ねで生じるんだなあ、ということだったりするわけだ。その一つが食事の描写。
料理そのもののリアリティや周辺との違和感のない存在感はもちろんだけど、その料理を食する人々の表情やリアクションなどで、その料理自身が活きて来るし、単なる料理と人間という個々の存在では無く、「食事」というリアルな生活のワンシーンとして構築されて頭の中に刻まれる。そしてそれが成されれば、作品への感情移入もひとしおなものとなり、魅力を覚えるようになる。漫画は各シーンの組合せでしかないけど、この料理のシーンの分析にもあるように、上手い表現が行われていれば、まるで動いているような、その場にいるような映像が頭の中で再現されることになる。一番良い例は......そうだな、やはり「孤独のグルメ」かな。
見方を変えると、食事のシーンを見れば、その作品、しいては漫画家先生の力量の一端を知ることができるって次第。もちろん料理そのものの描写がやけにリアルでも、食べているシーンがわざとらしかったり、さらには作品全体の表現とのバランスに欠けていても今一つなものになってしまうのよね。
いろんなもぐもぐ。オノマトペ素晴らしい。
沢山食べる女の子がすき。 pic.twitter.com/y37MRkp0Hp
— p (@sotto_p_) 2014, 10月 7
オノマトペ(フランス語で擬声語を意味する言葉。他に擬態語なども合わせての意味合いとして使われることが多い)も漫画の表現の上ではとても大切。これがあると無いとでは、リアリティ......というより疑似体験・脳内再生度がかなり変わる。試しに上のイメージイラストで、食事をしている時のオノマトペを外してみると、何だか妙な雰囲気を覚える絵になってしまう。あまりにも擬音が派手すぎると、俗にいう祇園祭、じゃなくて擬音祭的なものになってしまうけどね。
漫画家先生の語りを見ていると、食事のシーンが難しいとの声を結構見聞きする。やはりそれだけ気を使う、読者へのアピール度が大きいという認識はあるんだろうな。
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