確かにセンセーショナリズムやイエロージャーナリズムは、短期的には利益を得られますけど、中長期的には貧乏くじを引かされるのですよね、当事者も、読者も。マーケティング的な手法の枠組みを超えたそれらの手口を使うのは、当方は好きではありませんね......。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 10月 23
で、さらに先行記事【宮澤議員のSMバー問題で青木先生曰く「どの報道を読んでも何が悪かったのか分らない」】に関する話で。ヤフー個人ニュースやその他のネットニュース、法人系新聞サイトもあわせ、今件ではタイトル周りでいかにも釣りをするようなタイトルが次から次へと出てきて、頭が痛い想い。デジタル系コンサルタントやマーケティング担当などを自称する書き手が率先してそのような手口を使うと「そのマーケティング、本当に正しいの?」と肩書自身を毀損していることをやっていいのなかぁ、と悲しみを覚えたり、逆に「そういう扇情系手法がデジタル分野での広報手法だと思われると、すっげーアレなんですが」とちょいとぷんぷくりんモードに入ったりもする。
前にも取り上げたかな、いわゆるセンセーショナリズムやイエロージャーナリズム。これは猫だまし、ドーピングのようなもので、短期的には利益を得られるけれど、中長期的には貧乏くじを引かされることになる、当事者も、読者も。マーケティング的な手法の枠組みを超えたそれらの手口を使うのは、少なくとも当方は好きでは無い。元々のマインドセットの中に「そういうことはしてはいけない」ってのがあるのと、その類の手法をやらかしたことで後々まで大変な目に合う実態、下手を打って痛い目にあった事例をたくさん見てきているから。
まあ、昨今ではスマホ経由のニュース取得が増えて「つまみ食い的情報チェック」のスタイルが増加し、センセーショナリズムの効率が高まっている。だからこその、海外におけるキュレーションやらバスマーケが流行るのだろうけどね。
もちろんイエロージャーナリズムそのものを全否定しているわけではない。
@Fuwarin イエロージャーナリズムはあってもいいんだけど(東スポの無い世界なんてつまらないw)、その手法が「標準手法」になってしまったジャーナリズムに存在意義があるのか?というのはずっと問われ続けてるんだと思う。日本に高級紙が存在した試しがないのはそのせいかもしれない。
— なぢ:帝都猛獣学会会員(兼任) (@nadhirin) 2014, 10月 23
分かった上で、明確化した上での舞台での話なら何の問題もない。例えるなら舞台の上での銃撃戦は問題ないけれど、街中で突然本物のような銃撃戦を始めて一般の人を驚かせ、「どっきりカメラでした」なんていう所業は、今は許されないよ、ということ。
そもそもそういう猫だまし的な手法って、報道とはかけ離れた部分にあるはずなのだけどね。それを標準化してしまうってのはどういうことなんだろう......ってああ、以前【「報道バラエティ」と「ひととなり」と】などでも言及した、報道とバラエティ、プレスとオピニオンのごった煮状態ってことなんだろうな。
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