"成長のとらえ方は人によってさまざま。皆お金基準でしか成長をとらえてない"という主張は、自分に十分なお金がある人だけが語る傾向。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 10月 27
(そもそも論として「お金」が何であるのかを理解していない感強し)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 10月 27
先日本家サイトで掲載した記事【歳を経るほど「日本は成長しなくてもいいヤ」「縮小もアリだね」と思う人が増える現実】に対するリアクションの一つで、「成長のとらえ方は人によってさまざま。皆お金基準でしか成長をとらえてない」というのがあった。具体的な発言そのものは本人にとってネガティブなものとなりうるので直接引用は避けるけど、趣旨としてはそんな感じ。さらに不快感まで表明されていた。
これを読んで思い出したのは、先日某選挙で話題に登った「脱成長論」。お金に焦点を当てるな、成長なんてもうこりごり、成長を前提とする話そのものが間違っている、挙句の果てには他国の名前を挙げて「●×の国と比較してみろ、日本はぜいたくすぎるんだ」云々。
お金で買えない価値もある。それは間違っていない。お金だけですべてが解決するわけじゃない。それも真実。でもそれって、片方の局面しか見ていないよね。何度となく繰り返し述べているのだけど、お金ってのはそもそも論として色々な物品やサービスなどの対価として、計量が出来、蓄積も可能なものに置換された存在であり、ほとんどのものに変換することができる。何しろそれが目的で作られた「概念」であり、硬貨や紙幣はそれを体現化したものに過ぎない。硬貨や紙幣そのものに価値があるのではなく、それに価値があると裏付けている仕組みが価値を持たせている。子供が作ったおもちゃの紙幣がお店で使えないのと同じ。
成長は他の軸で計量することもできる。でも色々な物差しで測るにせよ、お金によるものが一番分かりやすい。もちろんお金そのものは目的であると同時に手段でもあるから、そればかりに振り回されるのは良くないけれど、蔑ろにして良いものでもないし、卑下する必要などない。
何というか、「お金」をバッシングすることで高貴さをアピールするような感があって、逆に奇妙さを覚えるのだよね、このような「脱成長論」的な話においては、さ。
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