(海外や現場や専門の部局に居ても、語る内容の質は担保しない。その場にいたことによる得られる情報の裏付けの一つになるだけ。しかもその情報を正しく用いるか否かすら確定は出来ない。●×在住ジャーナリスト、■×来訪経験多数の記者による記事の内容に疑問符を覚える物が増え、そう思うようになる
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2014, 10月 31
先に「戦争の事を語るのならリアルな戦場に足を運べ。それをしている俺様は絶対だからお前らは文句を言うな」的な戦場ジャーナリストの話でも少々触れたことではあるのだけど。先日某所で海外に在住していることをセールスポイントとするジャーナリストな方が、トンチンカンなことをドヤ顔的に語り、「だから日本はダメなんだ、滅びるぞ」的なことを語っていたのを見聞きし、再確認したお話。
現場に足を運び空気に触れることは決して悪い話では無い。むしろ数字だけ、紙やネットの資料だけ(動画を視聴したとしても)と比べて、生の、実体験による実態の感知は、状況を知るのに大きな役割を果たす。現場の声は百万の資料より勝ることもある。
ただ、それがすべてじゃない。
現場で得られる情報はあまりにもインパクトが強すぎる場合があり、その影響が強いあまり、その一部分だけの実態を全体に被せてしまい、さらに感傷的になってしまう可能性がある。そこには自分が足を踏み入れた場面の事実は存在しても、全体の事実にはつながらない。連動する可能性はあるけどね。
そしてさらに、その現場の情報ですら、正しく伝えているか否かは別問題となる。「現場にいた」ことが「現場の様子を正しく伝えた」ことは意味しない。正しく伝える可能性が高くなるだけの話。何らかの肩書を持っている、その場にいる、それ自身は発信情報の裏付けの一つになるけれど、確定する要素足りえない。残念ながら。現場の影響力が強すぎて、多分に感傷的になり、事実をよじ曲げてしまう可能性すらある。
現場にいることや肩書。それ自身はとても貴重なもので信頼されるべきもの。だからこそそれを用いた人は、その期待に応える物を創り上げねばならない。けれど昨今ではむしろ逆に、その権威を悪用し、奇妙な、独りよがりな、低品質のものを仕立て、権威で本物のように見立ててしまう。次第に権威自身が汚れていく。童話「おおかみ少年」と同じなんだよね。
とりあえず●×在住ジャーナリストという肩書を持つ人の文面では、鵜呑みにするのはひかえた方がいいんだろうなあ、と思う今日この頃。特に、直接その地域とは関係がなさそうな内容で、単に「日本国外から観ているから権威があるんだぞ」的な切り口ならば。
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