インフラの大切さは日常に浸透すればするほど分からなくなる

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蛇口をひねると出てくる水、スイッチを入れると途切れることなく輝き続ける蛍光灯、いつでもお湯を沸かせるコンロ。それらの光熱周りをはじめ、数々の社会環境を構築するインフラたちは、日常生活の維持には欠かせないものだけど、「それが当たり前」という状況に慣れてしまい、維持するための労苦を忘れてしまう。「失われて初めてわかる大切さ」ってのは、震災の時に痛いほど思い知ったはずなのだけど、その痛みを単にパニック的なものとして認識し、過ぎ去るとすぐに忘れてしまう、あるいは逆切れまで起こして「当たり前の物事が成されていないのは何事だ」とバッシングに走る。

それらインフラ周りのあれこれを再認識させてくれるお話。まぁ、インフラの環境整備の労苦に関してドヤ顔で「当たり前だ」と語る人たちや、「無理して整備することは無い、江戸時代を見習え」とか良くわからない人たちにありがちな主張、日本より貧しい国でも幸せそうじゃないかな云々って周りも含め、色々と考えされられるものがある。


インフラの整備による生存率の向上は、自然界全体から見れば不自然な確率論の話となる。一方で生存率を上げる手立てを講じるのは、生命体の本能的な部分も多分にある。「少しでも長く生き続けたい」という思いがあればこそ、人は生き続け、数を増やしていく。その意図が無ければとうの昔に種と滅んでいたはず。

「脱成長論」周りの話でも言及しているけど、それを語る人の多分は「自分にはマイナスの影響は無い」と考えている。で、その主張で実際に影響を受けるのは、指摘の通り色々な意味で弱い立場にある人たち。そのような弱い立場の人たちで、果たしてどれだけが「脱成長論」「回顧主義」「江戸自体への回帰」を語っているだろうか。

「リスクを定量比較する考え方」ってのは、要するに期待値的な考え方を意味する。ゼロリスク論とは両極にあるもの。多種多様なリスクは世の中に山ほど存在するけれど、それらをすべて排除したのでは何も出来なくなる。発生確率と発生した時のリスクを勘案し、どれだけの期待値となるかを算出比較し、取捨選択をするべきだという、理知的な思考法。

......なんだけど、インフラ周りの時にはこの発生確率を意図的にゼロにした上で、煽りたい事象の場合には発生確率をグンと上げたり、リスクを無限大のように表して、「インフラはあって当然」「このリスクは超ヤバイ」とし、インフラ周りを軽視し、リスクを感情的に煽る風潮が増えている。その方が懐が温まる人が積極的にやっているというのもあるのだろうけど、指摘されている豊かさ、社会基盤の大切さを読み返すと、つくづくどうしようもない方々が震災以降に増えたなあ、という感は否めない。

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このページは、不破雷蔵が2014年11月 6日 07:41に書いた記事です。

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