若い頃、アフリカのモザンビークで開発援助の仕事をしていたことがある。モザンビークは地理的条件としてはもっと豊かであってもおかしくないのだけど、旧宗主国のポルトガルのいいかげんな植民地経営やその後の内戦のため、最貧国の一つだ。
— Flying Zebra (@f_zebra) 2014, 11月 4
蛇口をひねると出てくる水、スイッチを入れると途切れることなく輝き続ける蛍光灯、いつでもお湯を沸かせるコンロ。それらの光熱周りをはじめ、数々の社会環境を構築するインフラたちは、日常生活の維持には欠かせないものだけど、「それが当たり前」という状況に慣れてしまい、維持するための労苦を忘れてしまう。「失われて初めてわかる大切さ」ってのは、震災の時に痛いほど思い知ったはずなのだけど、その痛みを単にパニック的なものとして認識し、過ぎ去るとすぐに忘れてしまう、あるいは逆切れまで起こして「当たり前の物事が成されていないのは何事だ」とバッシングに走る。
それらインフラ周りのあれこれを再認識させてくれるお話。まぁ、インフラの環境整備の労苦に関してドヤ顔で「当たり前だ」と語る人たちや、「無理して整備することは無い、江戸時代を見習え」とか良くわからない人たちにありがちな主張、日本より貧しい国でも幸せそうじゃないかな云々って周りも含め、色々と考えされられるものがある。
現地の人たちが悲壮な表情で暮らしているかと言えば全くそんなことはなく、皆明るく陽気だ。物質的な豊かさとは程遠い彼らだけど、物質的に恵まれた私たち先進国の人に比べ、とんでもなく不幸かと言えば必ずしもそうではないのかもしれない。
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幸福というものが物質的な豊かさとは直接リンクしないのは確かだ。しかし、選ぶことができるのであれば敢えて貧しい暮らしを選ぶ人はまずいないだろう。私だって、貧しければ貧しいなりにそれなりに楽しく暮らしてゆけるとは思うが、やはり豊かな方がいい。
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特に、自分自身よりも自分の子供や子孫、自分が属する社会の将来の構成員の事を思えば、豊かであることはさらに重要となる。多くの子供が慢性的に栄養不足で、ちょっとした下痢で幼い命が簡単に失われるような環境で自分の子供や孫が暮らすというのは、そうそう受け容れられるものではない。
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それが幸せかどうかはさておき、社会の安全、特に子供が無事に成長することのできる可能性というのは、社会の豊かさとほぼ直線的な相関を示す。「自然」の中では子供の多くが成長できず命を落とす。ほとんどの子供が無事に成長するという「不自然」な状態を維持するには、豊かさが不可欠なのだ。
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現在の先進国のように豊かで安全であるのが当たり前になっている社会では、それが本来不自然なことであり、それを可能にしているのは安定した食糧供給や公衆衛生、医療など社会基盤(インフラ)であり、インフラを維持するには豊かでなければならないということが、当たり前すぎて却って見えにくい。
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社会の豊かさが少しくらい損なわれても、中流に位置する人にはすぐには影響がないかもしれない。最初に、そして最大の影響を被るのは最も貧しい人たちだからだ。それでも、社会が豊かでなくなれば、豊かであれば救えたはずの命が救えず、人々の生命や健康が損なわれることは間違いない。
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もちろん、安全というのも多くの価値の一つに過ぎず、個人として安全よりも精神的な満足を優先する生き方があってもいいし、物質的な豊かさよりも他の何かを優先するのも自由だ。しかし社会全体として、敢えて豊かさを求めない選択をする場合には、相応の覚悟が必要なはずだ。
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なぜなら、それを主張する自分自身には直接の影響がなくても、豊かさを放棄するというのは社会の中の弱者が切り捨てられることであり、失わなくてもよい命を失うことに他ならないからだ。そしてそれは、ある確率で自分の子供や子孫にも必ず影響を与えることになるのだ。
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だからこそ、現役世代の大人には次の世代に豊かな社会を引き継ぐ責任があるし、余裕があれば余所の地域の貧しい社会が貧しさから抜け出す手助けをする責任もある。安直に「経済より○○」、「豊かさより△△」などと言えるのは豊かさ故の驕りでもあるが、どれだけの覚悟を持って言っているのか。
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現代の社会は、昔はなかった色々なリスクが増えているように感じるかもしれない。確かにリスクの種類は増えているだろう。ではリスクの量はどうか。文明の発展と共に平均寿命がほぼ一貫して伸びている事から明らかなように、人が命を落とすリスクは確実に小さくなっている。
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太古の昔から人類が付き合ってきたリスクというのは量として大きくても見慣れているため目立たず、新しい技術に伴う目新しいリスクは量として微々たるものであっても目に付くものだ。そこを「感覚」だけに頼って取捨選択すれば、まず間違いなくトータルリスクを増やす選択をしてしまうだろう。
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日本のように教育水準の高い社会では、災害などのショックによる一時的なパニックは仕方ないとしても、少し落ち着けば感覚だけで迷走せずに理性的にリスクを定量比較する考え方が受け入れられると思っていたが、残念ながらそうでもないようだ。
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インフラの整備による生存率の向上は、自然界全体から見れば不自然な確率論の話となる。一方で生存率を上げる手立てを講じるのは、生命体の本能的な部分も多分にある。「少しでも長く生き続けたい」という思いがあればこそ、人は生き続け、数を増やしていく。その意図が無ければとうの昔に種と滅んでいたはず。
「脱成長論」周りの話でも言及しているけど、それを語る人の多分は「自分にはマイナスの影響は無い」と考えている。で、その主張で実際に影響を受けるのは、指摘の通り色々な意味で弱い立場にある人たち。そのような弱い立場の人たちで、果たしてどれだけが「脱成長論」「回顧主義」「江戸自体への回帰」を語っているだろうか。
「リスクを定量比較する考え方」ってのは、要するに期待値的な考え方を意味する。ゼロリスク論とは両極にあるもの。多種多様なリスクは世の中に山ほど存在するけれど、それらをすべて排除したのでは何も出来なくなる。発生確率と発生した時のリスクを勘案し、どれだけの期待値となるかを算出比較し、取捨選択をするべきだという、理知的な思考法。
......なんだけど、インフラ周りの時にはこの発生確率を意図的にゼロにした上で、煽りたい事象の場合には発生確率をグンと上げたり、リスクを無限大のように表して、「インフラはあって当然」「このリスクは超ヤバイ」とし、インフラ周りを軽視し、リスクを感情的に煽る風潮が増えている。その方が懐が温まる人が積極的にやっているというのもあるのだろうけど、指摘されている豊かさ、社会基盤の大切さを読み返すと、つくづくどうしようもない方々が震災以降に増えたなあ、という感は否めない。
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