羽生選手の件で「せっかく感動したのに」「羽生選手も諦めないでよかったと思っているのに」という意見と、「やはり棄権すべきだった」という意見がファン同士で対立するのは悲しいですね。一個人として感動した人はそれでいいと思います。最もよくない事をやったのはこれを美談に仕立てた放送局です。
— 井上リサ@11/28-30若狭原電紀行 (@JPN_LISA) 2014, 11月 11
先日の羽生選手の衝突事故とその後の競技継続周りの話は、スポーツや医療関係の専門家ではないので、その方面でのチェックは止めておこうと決めてはいたけれど、この指摘の件ではなるほど感を覚えたので、覚え書きも合わせ。幸い同選手も無事......というか状況的には色々な問題が指摘されているようだけど、ともあれ日本に帰国はできたのだけれど。
結局、言われている通りで、また先日の記事でも触れているけれど、個人で感動したりあきらめないで良かったと思うこと、棄権すべきだったという話は一向に構わない。問題なのは今件状況において、美談に仕立てて賛美し、後に続け的な感じで持ち上げた放送局をはじめとする一部報道。
確かにその方が放送そのものやその後の番組、報道の上でも形としてまとまりやすいし、これまでのパターンを踏襲できるのでイージーに構成できる。トラブルがあった、でも無理をして続けた、凄い頑張れよくやった。で、結果が出なければバッシング、出たら出たでまた感動。そして選手生命はすりつぶされ、浪費される。その形式が賛美され、伝えられる側の姿勢に沿わない選択肢を選ぼうものなら、大っぴらに、あるいは陰で非難される。直接報道関係者が語らなくとも、有象無象のコメンテイターに代弁させることもあるだろう。
でもそれって「常識だから」「当たり前のことだから」で済ませていいのだろうか。本当に当たり前の事なのだろうか。むしろ自分達にとって都合の良い、本来は問題のあることを「常識だから」というラベルを貼って、だましているだけじゃないだろうか。食品偽装問題のように。
かつて......今でも一部使われているけど......各報道は政治家の行動について「永田町の常識は世間の非常識」とあざけり笑う事を度々行ってきた。でもよく考えてみるとこの表現ってむしろ、「報道の常識は世間の非常識」とした方がよりピッタリくるのではないかのかな、報道の非常識さに比べたら政治家のそれなんてミジンコレベルでは。羽生選手の報道姿勢と、今回の指摘を受けて、思わざるを得ないんだな。
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