それ,近世の邦人にはむっちゃ立体に見えたらしい.ってのを考察したのが[ 岡 泰正 『めがね絵新考―浮世絵師たちがのぞいた西洋』|Amazon http://t.co/BdmI9qB43V ]で,その立体視が共有できないだけに非常に面白かったです @telexjp
— 市川絡繰 (@awajiya) 2014, 12月 15
文字の前後を入れ間違っていたり、図形の一部分が異なる様相でも、人間は脳内で補完したり組み立て変えて、本来あるべき姿として認識してしまう。似たような仕組みで、よくある「ちょいと視線をずらしたような絵を並べて作る」ステレオグラムではなく、同じ絵を左右に並べたニセのステレオグラムでも、立体に見えることがあるという......というか昔の人はそれがスマートに出来たらしい。感性とか感触ってのは文字で疑似表現は可能でも、それそのものの感覚をそのまま記録することは出来ないので、心象的なものまで当時の状況を推し量ることは難しい。
というか近世のメガネ絵を見る事はいまでも復元すりゃ出来ると思うんだけど,彼らの見た立体の心象はもう見られないのな.わしらはもっと進歩した立体が立体に見える図法や見え方を知ってるから, @awajiya
— 市川絡繰 (@awajiya) 2014, 12月 15
いま見たらそれは,ただ稚拙でミスの目立つ遠近法に基づく絵を二枚左右に並べて覗くだけで,たぶんわしらには,あまり立体的には見えないと思うのな @awajiya
— 市川絡繰 (@awajiya) 2014, 12月 15
目に見えるものを立体として「解釈」しようとする認知の働きが,ふだんわしらが思ってるより,だいぶ強い.ってことなんでしょうなぁ. まぁ平面の絵って,ラスコー壁画からしたって,そう大昔じゃないですもんな. 脳の認知システムの方がそのずっと前に大枠が出来てたものかと. @telexjp
— 市川絡繰 (@awajiya) 2014, 12月 15
周辺環境が変わってくると、それに従い人間の内情的な判断能力も変化していく。昔は指摘されているような立体視も出来たのだろうし、する必要がある場面もあったのだろうけど、今ではもっと簡単な方法が色々と出てきたので、かつての能力は後ろに引っ込んでしまったんだろうね。自動車免許を持っていても、何年も運転していないと運転方法や感覚を忘れてしまう、みたいな。
まぁ,立体として「解釈」しようとする認知の働きが非常に強けりゃ,図法上の遠近法なんて,どうでもいいんだよな.実際にアッシリア,エジプトからルネサンス前までは,あれで充分に遠近のついた立体に見えてたわけだし,本邦なんかもっと後までそうだ.
— 市川絡繰 (@awajiya) 2014, 12月 15
極端な話,わしら建築の設計屋は,平面図だってアクソメだって,普通に立体に見えるもんね.もしその心象に遠近をつけろと言われたら,簡単なトレーニングで出来ちゃうと思う.
— 市川絡繰 (@awajiya) 2014, 12月 15
昔の設計屋ジョークで「平面図が平面に見えてるうちは素人」なんてのがあったが,これけっこうマジ成分入ってるんだ.
— 市川絡繰 (@awajiya) 2014, 12月 15
当方は造形......というか美術的センスが壊滅的にダメな人間なので、絵が描ける人とか立体的な造形を作れる人を素直に尊敬するし、別次元の感覚・センスを持っているんだろうなあ、と想うことがある。頭の中にイメージが出来て、それを実態のものとして手で作り上げられる。この工程において、脳内のイメージが立体的に、本物のように見える、さらには元となるデザインを平面で見ても、それが完成図のような造形として頭にイメージされる。そういう方面の回路が脳内に構築されているのではないかな、と思ったりする。
「平面図が平面に見えてるうちは素人」。設計屋のジョークと語られてはいるけれど、設計関係者に限らず、造形を生業としている人に共通するお話なのかもしれない。そしてその方面で今では恐らく失われていたであろう過去の人たちは、その能力で様々な作品を生み出していったのだと思うと、昔のあれこれを見る目も変わってくる......と思うのだな。
コメントする