以前東大の先生が「なんで運動できる子がチヤホヤされて勉強できる子が白眼視されるかというと、運動はチームやクラスの利益に貢献するけど、勉強は本人一人の利益にしか貢献しないわけで、そりゃ、おのずとそうなります。私もうそういう扱いでした、とほほ」って書いていて涙
— 幸田高吉(仙丸) (@1000_MARU) 2014, 12月 17
これは当方も昔から思っていたことで、運動が出来る子供は他の子供からチヤホヤされるだけでなく、先生や近所など周辺からも一目おかれるようになる。当然、学級委員や生徒会のような場に立つのもスポーツ系の人ばかり。普段の行動でも何かと便宜をかけてもらえるようになる。一方で成績が良い子供はそれでオシマイ、どころか逆に冷遇されると評されてもあながち間違いではない。成績表の上では体育も国語も算数も皆同じはずなのに、どうしてここまで世の中の扱いは違うのだろう。
これがすべてではないけれど、それなりに納得できる説明がこれ。要は「運動が出来る」はクラス全体、さらには学校などにも恩恵を容易に与えてくれるのに対し、勉強の場合は個人にその利益が集約されてしまうから、というもの。
それじゃ美術なり図画工作はどうなんだろうかと考えると、コンテスト、コンクールで賞を取れば個人と共に学校も表彰されることになるから、単なる勉強と比べればまだ高めの評価を周囲から受けられる。大体実体験した状況そのもの。
これが高校ぐらい、しかも進学校になれば、クラス単位の平均点の底上げにつながるなど、他の人への恩恵にもつながるのだろうけど、小中学校位まではそういう類の話までには至らない。
さらに深読みすると、結局のところ小学校あたりから、「自分の利益になるか否か」で人への接し方を意識的、あるいは無意識に判断していることになるんだなと考えると、興味深くもあり、同時に色々と醒めた想いにもなったりする。
......仮に、小学校の時からクラスの学業上のテストの平均点を競わせるような環境が用意されていたら、この運動と勉強に関する子供達の社会におけるパワーバランスにも、変化が生じるのだろうか。社会実験的なものも探せばあるのかもしれないな。
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