書き物全般に言える事なんですけれど、物理的な成果物や手が加えられたモノが呈されないと、仕事をしていないと思われてしまうってのは一種のジレンマですね。例えば俳句や短歌は書き連ねる作業そのものは数秒、数分で終わるのでしょうが、それを創作するのには何日もかかることもある。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 1月 13
後で考えてみたら、これは書きものに限らず、創作物を成すものすべてに言えることだな、というのに気が付いたのだけれど。出来上がったものを直接作り上げるためのプロセスにあまり時間がかかっていないように見えるものだと、「大して手間かけて無いだろ」「もっと色々と手を加えるべき」と見られることがある。以前の本家記事【自分の目の前にあるものがすべてではないことを知る】でも触れた、直接生成のコスト以外の部分が考慮から欠如した場合に起きがちなこと。
料理でもそうだよね。見た目はちんまいものでも、それを創り出すには下ごしらえなども含めムッチャ時間がかかることがある。特定の場所にたどり着くために、色々と試行錯誤をして何時間もかかったけれど、道のりを知っていれば10分も経たずに到着できるので「何サボってるの」と言われてしまう的な。
以前創作的な文章を書き連ねた時、「そんなの数時間で出来るでしょ?」と言われてあ然としたこともある。既に存在している文章をタイプし直すだけのとさほど変わらない時間を例示され、「ああ、この人は『文章を創る』という発想が無いんだ」と心の中で嘆きながら、その人に叱咤された経験は、とてもとても悲しい思い出。
見えないもの、見えにくいもののリソースの消費とかコストを理解してもらえないってのは、やっぱり辛いなあ、と。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 1月 13
先日 ウェアラブル端末でより一層監視が出来る社会、でもそれは.... http://t.co/E9qINQ0trI でも触れたけど「何かちゃんとやってそうに見える」的な物が評価されやすいから、とにかく量を見せる生成をしてしまうっていう罠に陥ってしまうのよね。気を付けないと。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 1月 13
例えば8Pできっちりとまとまる作品を「こんな短編、すぐに出来るだろ」と批評されるのがイヤなので、64Pに伸ばしたら、駄作になってしまうとか。あっさりとしたデザインが魅力なのに「書き込みが少ない」と突っ込まれたくないので色々足したら、ごちゃごちゃでとりとめのない絵が出来たとか。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 1月 13
アウトプットのコストは計測されるが、それをひり出すための労力、インプットのコストは、最終消費者からは見えないからコストに計上されにくい、みたいなアレ。
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 1月 13
@Fuwarin @azukiglg ハリウッドルーチンの映画もそうですね。取って付けたような必要のないピンチを入れてみたり、盛り沢山に無理矢理して間や余韻を台無しにしています。
それをキャラや設定を壊してでも入れて来たり...。
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— スイカ羊 (@suika_sheep) 2015, 1月 13
この類のミスは容易にしでかしてしまいがちなので、自戒の意味も込めて。見た目だけの作業量を重視しすぎると、そちらにばかり注力して、全体的な、本当に為すべき作業がおろそかになってしまいかねない。
色々と気を付けなきゃいけないし、目に見えない部分こそが大切なものも多いんだなあ、と。改めて。
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