自分が人に奢るのは、相手がさらに誰かへ奢ってくれる流れを期待してのことだ 自分が誰かを助けるのは、相手が他の誰かを助ける機会がくるのを願ってのことだ 他へ何もしそうにない奴を助ける気はさらさらない
— JagdChiha@C87大入御礼 (@Jagdchiha) 2015, 1月 21
似たような話は世界名作劇場、多分「母をたずねて三千里」だったかな? で見聞きした記憶がある。自分が他人を助けるのは、その助けられた人がまた誰かを助ける行動に走るから。その連鎖が繰り返されれば、自分がつくったきっかけで、多数の人が手助けを受け、幸せになれるからというもの(アワーズで連載していた「トランスノイド」でもあったな、そんな話)。
その発想を利己主義的、ご都合主義、さらには自己満足の体現化ととらえる向きもあるだろうけれど、人が元々利を求める行動性向を持っていることを考えれば、決して悪い話ではない。自分がきっかけで周囲が少しずつ良くなっていくのなら、それを実感、あるいはその雰囲気を感じ取れるだけで、自身にとっては利になることに他ならない。滅多になく、奇跡に近い確率だけれど、自分がトリガーとなった流れに再び遭遇し、それを認識出来たのなら、至極の喜びを得られるに違いない。
自分の所で流れを止めてしまうような人に手を差し伸べないってのも、やはり利己主義的とする意見もあるだろうけど、十分理解は出来る。完全な博愛主義のように見えて、実のところ自分の利も得る目的で行っているのだから、それが果たせないのならば、行動する意味はない。
皆が皆、この考えを持っていれば、何かあった時に他人から助けられるためには、常日頃から他人を手助けしている必要があることになる。アウトプットのルートを持っていない人にはインプットが行われないから。循環が成されればこそ、の話であり、停留は望まれていない。
この発想、よく考えてみれば善意や手助けだけでなく、お金周り、そして人の流れ、ネット上のアクセス動向でも言えるんだよね。溜めこまず、循環させることで多くの人が活気づいていく。それを忘れ、あるいはつまはじきにして、自分の懐にため込むと、その人自身は潤うかもしれないけれど、結局それを皆が始めると、全体がよどんでしまう。
「他へ何もしそうにない奴を助ける気は無い」ってのは一見ワガママのようにすら見えるけれど、実は正しい選択なんだろうな。
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