ほんとにねえ、「最近の物言えぬ空気」ってさ、言ってるじゃないの相変わらず。時間の流れとともに、笛吹いても誰も踊らなくなって白い目が返ってくるようになったってだけのことでしょう。
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— hiromio (@16331633) 2015, 2月 25
先日の【震災から4年目を間近にひかえて「御用」「ムラ」で弾圧をした方々が「自分達は責任は無い」とする言い逃れへの指摘】や先の【想いの通りにならないと地べたにへばりついて駄々をこねる子供のような...「批判自粛が広がっている」とジャーナリストや知識人が会見】などの話を見返したり、それに関するレスポンスなどをチェックして思った事。自由は自由奔放と同意では無く、自由のための前提となる権利や義務が伴うものってのは何度となく触れている話ではあるけれど、それと同時に自由に出来る事・した事と、その結果が認められる・られない、正当性のあるなしはまた別の話ってことも、(これも当たり前の話なのだけど)強調する必要があるのかもしれない。
自由に語られた内容は、それが正しいか否かを保障されるものではない。にも関わらず自由に語った内容はすべて正しく、その上で正しいからこそ同意を得られねばならないとして、「自由に語ったのにも関わらず周知されない、同意を得られないのは、自由に発言できいないからだ、空気が悪いからだ」と、三段論法的な斜め上的発想で論理展開をし、「自由じゃない」と主張している。
要は「自由じゃない」「物言えぬ空気」云々ってのは、「自分達の意見が正当性を認められない」「話を聞いてくれない」のが勘弁ならないという真意の別表現なんだろうな。
表現をする事は自由。但しその自由には責任が伴う。社会的ルール、法に従う義務がある。そして表現がいかなる評価を受けるかは、それぞれ評価した人の自由。評価されなかった、同意を得られなかったから、「迫害されている」「自由が損なわれた」とするのは、単に駄々をこねているのと同じなのです。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 2月 13
たとえば「翼賛体制だ!」「報道の自由は死んだ」みたいな意見が大手を振ってあちこちで見られることが、実は逆説的に表現の自由・報道の自由が担保されていることを証明していることにもなってるわけです。
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2015, 2月 13
民主主義は死んだ!>議会や選挙に何ら制限は課せられていない
翼賛体制だ!>解党した政党はゼロ。加えて与野党は協賛関係にない
安倍独裁を許すな!>新憲法公布以来、首相の権限は拡大されていない
報道の自由への制限だ!>自由気ままに報道してるやん
#口撃するならもっと頭を使おう
— 高嶋規之@ガイキングLOD・DVDBOX (@F4EJ2Phantom) 2015, 2月 14
「●×できない」と主張すること自体、その「●×」が出来ていないと不可能という、非常に明瞭な矛盾による主張。ちょいと立ち止まって聞き返せば、そのおかしさにはすぐ気がつくはずなのに、それを堂々と語り続けている点で、むしろ危機感を覚えるべきではないかな、と思うのは当方だけだろうか。
「声高らかに主張している行為そのものが、その主張内容を否定している」という、即自爆行為がなぜ繰り返されるのか。「俺もう三日も断食しててさ~」と手に一杯の肉まんが詰まった袋を持ち、二つ三つと目の前でほおばりながら語る、みたいな感じなんだよね。「あの国では自由が奪われています」的な発言を、その国から亡命した政治犯が別の国で記者会見を開いているのなら話はともかく(中国から亡命した人が良く行う、アレね)。
その辺りに気が付いてほしいんだけどな......。
同意を得られない、耳を傾けてくれないのは正当性が無い、論理的に破たんしている、聞く価値が無いと判断されているからであり、自由な発言が出来ないからでは無い。デマや脅し、煽動などをせずに、論理的に正しく、正当性があると理路整然と語れば良いまでの話。自分達は糾弾されているから云々と、理由付けをして弱者を装うのは、卑怯者のやり方でしかないんだよね(前世紀末の某悪質新興宗教の手口にも似てるな......)。
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