加害者・被害者の実名報道の是非と現状における難しさと

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先の中高生に絡んだ事件に合わせ、未成年者に焦点が当てられているけれど、事件報道における加害者・被害者の実名の露出に係わる是非が改めて問われている。先の御嶽山の事故やアルジェリア日揮事件の時が印象的ではあるんだけど、以前【新聞報道の行動原理「人を描け」と三文小説と】などでも改めて理解できた、「物語として伝えることが大切だから、そうしないと人々の心に刻み込むことは出来ないから」という大義名分のもと、実名報道は欠かせないとする強い意志があるようで、匿名報道へは概して消極的。でもこれってその論理を通すと「被害者がさらに身元などをさらされて、本人やその周辺の人が悲しい思いをさせられるような犠牲は、報道の主旨に基づき不特定多数に周知させる効果を高めるのに必要な犠牲だから我慢しろ」と言ってるのと同じになる。

でもこの理論って、報道内部関係者などには何故か適用されない場合が多い。これってよく言われる悪い意味での利権な感じがする。心に刻み込むのなら偽名にしちゃってもいいんじゃない? 匿名Aさんとかがダメなら。個別個体として視聴者が認識すればいいんでしょ? アメリカにおける台風の呼び名みたいなもんにすれば。


......と思ってたらほぼそのままの事が指摘されていた。内輪の理論ってのは言い得て妙だ。


こちらは現在の中学生の事案に絡んで改めて問題視されている。どうもネット上には被害者・加害者双方の写真やら動画やらデータが続々と上がっているようで、それの真偽性も色々と話題に登っている。事実と違うのであれば大問題に違いなく、確かなものであったとしてもそれは許されるべきものではない。「行動することは控えるべきだ」とドヤ顔している識者もいるけれど、そんなレベルで無く、「してはいけない」と強い意志で否定しなきゃいけない。

その流れに関しては指摘の通り不特定多数が公開メディアを持ってしまったからというのも一因に違いなく、一方で従来型メディアが同じようなことをやっているのでそれを見本にしてしまったのではとの指摘もある。比較対象事案が無いので精査はできないけれど、参考にしている面もあるんだろうな。

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このページは、不破雷蔵が2015年3月 2日 07:02に書いた記事です。

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