「相手に喋らせる対応をする、誘導するのがよい記者だ」は本当なのか

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新聞記者を中心とした報道関係者の自叙伝や報道とは何ぞや的な話、新聞業界の歴史などが語られる場では、必ずといってよい程目に留まる話の一つが、この「相手に喋らせる対応をする、誘導するのがよい記者だ」。手を変え品を変え、対象者が普通ならば口にしない内面を語らせ、それを記事にするのが本当のよい記者だというもの。一見すると「おお、スゴイな」と思わせる話ではあるのだけれど。

良く考えてみたら、それでいいのか? という疑問が頭をぐるぐると走り回るように。

行った対応、誘導する手法が本当に正当なもので、語られる内容が対象者の内面にあった事実であれば特に問題は無い。例えば本当は牛丼三杯を食べたのだけれど、大飯食らいが恥ずかしくて二杯しか食べていないと語っていたのに対し、「いやあ実は自分、大食漢でねえ」と語らせたのなら、それはそれで良しとなる。

しかし口から言葉が放たれたこと自体は事実だったとしても、それが本心であるとは限らない。口がすべった、認識に錯誤があった、言い間違いがあったなんてのは良くある話。例えば犯罪現場や事故現場で目撃証言を集めると、人によってかなり内容が異なる場合がある。印象を元に語るので、事実がそのまま記憶として残らないっていう良い事例。それと同じようなことが起きている可能性もある。「「相手に喋らせる対応をする、誘導する」ことがミスリードを呼び起こすこともあるかもしれない。

そう、報道勢がよく批判する、警察などでの被疑者への聴取における誘導尋問とどこが違うのだろう。


思考誘導、ミスリード、二分法の悪用などなど。手法は数あれど、基本は詭弁的なもの、山師や詐欺師が用いる手法と根本的には同じ。あるいは洗脳にも近いかもしれない。昨今の記者会見や報道内容あたりを見直してみると、この類の話って結構多いような気がする。

口から語られたこと自体は事実なんだろう。で、その内容そのものは事実なのだろうか、その人の本質、真意を反映したものなのだろうか。第三者が読むのに値する価値を持つものなのだろうか。

本当に必要なのは「相手に喋らせる対応をする、誘導する」のではなく、「相手に本当のことを、そして語りたいことを喋らせる対応をする、誘導する」ことではないのかな。都合の良い、シナリオに沿った内容では無くて。

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このページは、不破雷蔵が2015年3月 4日 07:48に書いた記事です。

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