一般の人向けに専門的なことを説明するときには、わかりやすさと正確さにトレードオフがある。わかりやすくする代わりに正確さを犠牲にするか、あるいはわかりやすさを犠牲にしても正確さを期すか。正確にしようと思えばいくらでもできるとしても、目的によってはどこかで妥協しなければならない。
— なとろむ (@NATROM) 2015, 3月 13
妥協の結果、詳しい人から見たら不正確な(ようにみえる)ところが出てくる。「ああ、まあ、この点ちょっと不正確で、説明不足かな。でも言いたいことはわかるよ」とか、「いやいや、一般の人が誤解するからこの表現まずいっしょ。ちゃんとしないと」とか、そういう反応ならわかる。
— なとろむ (@NATROM) 2015, 3月 13
「分かりやすいと正しいは別物」、つまり「正しくない内容を普及浸透させるために、分かりやすくしてハードルを低くし、多くの人の手に取らせる」手法の危険さを以前紹介、解説したけれど、その手法が糾弾されねばならない理由の一つがこれ。正しい内容を教え解く、少なくとも興味関心を抱かせてより詳細で正確な内容へのアプローチにたどり着かせるための手法と、ごっちゃにされてしまうから。ギリギリなトレードオフの部分に関して指摘される場合、その指摘は真摯に受け止めるべきであるし、問題が認められれば改善の模索が求められる。
一方、導入口を創り上げるためにやむを得ずトレードオフした部分で邪推をされてしまうこともある。
妥協の結果、詳しい人から見たら不正確な(ようにみえる)ところが出てくる。「ああ、まあ、この点ちょっと不正確で、説明不足かな。でも言いたいことはわかるよ」とか、「いやいや、一般の人が誤解するからこの表現まずいっしょ。ちゃんとしないと」とか、そういう反応ならわかる。
— なとろむ (@NATROM) 2015, 3月 13
でも、「日本語がわからない」とか「ボケている」とかだと、「てんでわかっていない人」の感想にしか見えないわけ。「いやいやいや、わかれよ。批判するにしたって、ポイントずれているでしょ」って言いたくなるのです。
— なとろむ (@NATROM) 2015, 3月 13
まぁ邪推なんてのは感情論から想起されるものだから、その点について他人との違いを云々しても仕方がない。その人の物差しはその人だけのもので、他人には推し量れないから。ただその邪推なり難癖なりが、対象をそれなりに理解・読解した上でのものでなく、それ以前の問題だったりすることも無いわけでは無い。言葉は通じる、意味は分かるのだが、理解が出来ない。まさに「文化が違う」的な、先日の例なら某鳩山元首相の言動・行動のような感じがする。
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