「www」とか「ワロス」とか、表情の見えないメディアでの「笑う」ことの表現は、じっさいに笑っているかどうかではなく、「笑っていることを伝える」という表現に変化してきていて、「伝える」ことを強く意識したとき、「笑い」のなかの、侮蔑的な要素や嘲笑的な要素が際立ってきている気もする。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 3月 20
動画チャットなら話はともかく、多分に意思表示はテキストベースで行われるのが、昨今のネット上におけるコミュニケーション。LINEのスタンプのようにアイコンやイメージカットで感情的なニュアンスを付加させることもあるし、それこそSMSやパソコン通信の時代から使われてきた顔文字の数々や「(笑)」のような直接的な表現方法を用いて、「笑う」を表することはできる。
ただ指摘されてみると確かに、自分自身が本当に笑っているか否かのウェイトよりも、笑っている状況にあることを相手に伝えることのウェイトの方が大きくなっている感はある。「(笑)」とタイプした時、自分は本当に笑っているだろうか。少なくともにやりとしながら頭の中で笑いの感情に満ちあふれた状態となっているだろうか。
そして自分の感情の素直な、結果としての露呈より、笑っていることを意思表示するための手段としての表記となりつつある以上、純粋な感情の発露よりも、裏読みが出来る内容を秘めている笑いの部分が強く表現されてしまう、少なくとも第三者にはそのように思えてしまう雰囲気は確かにある。
本来的には、自分のなかで感じたおもしろさを表現するための「わらい」であったものが、「笑ったことを伝える」と「伝える」ことを強く意識するようになってしまったとたん、ひとに聞かせるための甲高い笑い声のように、非常に不快な感じを意図的に相手に伝えるための表現に変化しつつあるようだ。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 3月 20
「笑ったこと」の表現が、おかしくて笑っているかどうかよりも、「笑っていると伝える」という表現になり、それにともない「笑い」の侮蔑的で嘲笑的な部分がより強く伝えられるようになってしまったので、じゃあ、おかしくてたのしいときには、どうそれを伝えたらいいのかわからなくなってくる。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 3月 20
侮蔑や嘲笑に「わらい」が乗っ取られてしまっていて、ただ単にたのしかったり、面白かったりするときに、どうやってそれを表したらいいのか、よくわからなくなってくる。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 3月 20
「『わらい』には毒の要素がある」というのは事実であるとしても、「毒の要素しかない」わけではないと思うのだが、「毒の要素がある」という面だけがやたらと強調され、「わらいとは毒である」という極端な話になってしまい、「毒ではないわらい」の行き場がなくなってしまう。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 3月 20
直に目の前での表情では無く、テキストという媒体に置換されたことで、「笑い」の本質が変わってしまう。本当に純粋に面白くて、楽しくて、愉快で笑いたい、笑っている、その事を伝えたいのに、文章で示された自分の言葉は何か別のものに変質してしまっている。確かに、特に感情表現の部分はその雰囲気が強い。
だからといって「僕は心の底から楽しさを覚え、満面の笑みを見せながら、大いに笑った」などと表現すれば、なにそれキモイと思われる。第一チャット的なやり取りでそんな表現を使おうものなら、逆に皮肉にすら取られてしまう。先のスタンプなりイメージカット的なものなり絵文字を使うという手もあるけれど、フランクな場以外では使いにくいし、それもまた誤解の引き金を引きかねない。
感情をテキスト化した時に生じる変質ってのは、実はかなり前から色々と論議の対象になっている。今手元に資料が見つからないけれど、昔のソフトウェアにはアイコンだけで意思疎通をしようという試みのものもあった。今ならスタンプだけでのやり取りみたいなもんだ。
まぁでも考えてみれば、当事者同士が向かい合って直に言葉を交わしても、意志の齟齬が生じることは多々ある。それこそ言葉は通じても意志が通じない、「文化が違う」的な事態もある。テキスト化した時の「笑い」をはじめとした感情的表現の変質もまた、よくある出来事の一つにすぎないのかもしれない。
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