玉石混淆のネットから玉を見つける水先案内人を自称する人がこんな記事書いてダメだと思う。甲状腺がんで福島事故否定する見苦しい科学者(団藤保晴) - Y!ニュース http://t.co/gYhhfWn331
— plutob4 (@plutob4) 2015, 3月 27
まぁ、自分で「真実を探す」とか言ってる人は大抵真実じゃなくて珍説ばかり探してますし、自称「玉石混淆のネットから玉を見つける水先案内人」が石(しかもわりと迷惑なやつ)を率先して増やしても今更驚きません。
— Philip K. Anzug (@PKAnzug) 2015, 3月 27
言論は自由ではあるけれど自由奔放では無い。権威を悪用したり嘘偽りを語れば当然ツッコミが入る。そして事実と真実とは同じように見えるけれど、実は結構違うものだったりする。先日掲載された該当記事に、頭の痛みを覚えつつも、他の場所に転送されるようなことにでもなればツッコミを入れるべきかなと思ってたけれど、その前に関連する専門家の人たちがツッコミを入れていたので、覚え書きとして。
内容そのものへのツッコミは指摘の通りではあるけれど。事実と真実周りの話が興味深くもあり。確かにこの類の方のプロフィールや主張では「真実を探す」「真実を見た」的に、真実という言葉が大バーゲンセール的に使われている。その方が格好いいし、何だか偉くなった気がする。
事実と真実とは異なる。どこぞのアニメの名セリフでは無いけれど、事実は一つに違いないが、真実は人の数だけ存在する。同じものでも見る視点によって見え方は違ってくるし、知識によっても変わってくる。カラスをカラスといえる人もいれば、黒い鳥と表現する人もいるし、何か怖そうな空を飛ぶものという人もいる。クロちゃんと呼ぶ人もいるかもしれない。それぞれが語る人にとっては真実。そんな感じ。
で。この類の真実ってのは往々にして事実とは大いに異なる、そして自分自身にとって(目立つために、懐を温めるために、時節を補強するために)都合の良いものであることが多い。「事実を探す」では無く「真実を探す」ってのは、「自分探し」であったりするわけだ。
自己を確立するのにはそれでも良い。実際自分が他の人とは違う、誰でもない自分自身であるとの自己認識を得るためには、それが必要となる(マインドセットというものかな)。ただその中で、事実をよじ曲げたり、フェイクを混ぜてしまうと、自分自身の真実がニセモノとなってしまい、最後には自分自身までフェイク化される。それを望むのも個人の自由ではあるのだけれど、人に迷惑をかけるのは勘弁被りたいかな、という感は否めない。
ともあれ。自己主張の中で「真実を探す」的な表現があったら、一歩引いて冷静な判断で見直してみるのが無難なんだろうな。
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