サブカル熱く語り合う シンポで熊谷市長ら OTAKUEXPO | ちばとぴ ちばの耳より情報満載 千葉日報ウェブ http://t.co/jIgEuVkna7
元文化庁長官も含め、パネリストが「もうサブカルではなくカルチャーでしょ」と言っても、マスコミはこういう見出しになります
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2015, 3月 28
アニメ等に関しては既にどの表現手法よりも世代を超えて親しまれつつあるにも関わらず、マスコミ等社会的にはカルチャーと捉えない日本独特の風土(海外では文化)。文化施策や産業施策としての位置づけが弱く、結果世界で戦えるはずの分野もいずれは世界の後塵を拝することになりそうで危惧しています
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2015, 3月 28
「サブカル」とはサブカルチャーの略で、メインとなる文化とは別に存在する、傍流、一部受け、独自の、突っ張ったようなポジションにある文化のことを指す。サブってのは多分に仕切り分けした際の下層ランク的な意味合いもあるので、劣等感を内包的なものとして意味していたり、世の中の主流にとらわれない独立愚連隊的な雰囲気を象徴している面もある。
で、指摘の通りアニメや漫画などのようなエンタメコンテンツの類や概念は、今や誰もがその存在を知り、様々な分野に浸透し、今なお軽視されたり「大人が触るものでは無い」とする風潮もあるけれど、多くの人は「んなこと知ったこっちゃない」という感は強い。もし本当にサブカルに留まっているのなら、例えば今の自治体などのゆるきゃらブームは何だろうか。萌えキャラなどによる擬人化のマーケティングはなんだろう、ということになる。
それらを思い返しながら市長の言を読み直すと、まったくもってまっとうな話に違いないな、と再認識させられる。確かに十年、二十年前まではサブカル扱いでも間違いでは無かったのかもしれないけれど、今は環境が、状況が違う。「サブカル」と表した記事の書き手は【想いの通りにならないと地べたにへばりついて駄々をこねる子供のような...「批判自粛が広がっている」とジャーナリストや知識人が会見】で指摘したような、概念が昔のものに固定化されてしまっているのかもしれない。
私は歌舞伎好きですが当時はサブカルですし、ビートルズも今は文化。時代を越えて愛好される表現手法が文化となるだけで、時計の針が止まったままの価値意識は固陋ですね RT @dandonban 漫画も当初は「子供の読み物」として扱われていましたが、今ではカルチャーですよね
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2015, 3月 28
表現手法は時代とともに変遷するもので、行政として重要なことは住民の自己表現を支援し、多くの表現に出会うことによる想像力や文化的生活の向上を図ることです。表現手法によって差異をつけることなく、内容によって差異をつけることが理想で、千葉市が地域社会でいち早く実現したいと思っています
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2015, 3月 28
@dandonban 国内でも学問として出てきていますし、海外では以前よりメディア文化として研究されてきていますよね。どうもマスメディアが表現手法と内容を区分できていない気がします
— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2015, 3月 28
視聴の指摘で再認識出来たような気がするけれど、そしてもちろんAll or Nothingではないのだけれど、やっぱり現在の大手マスメディアでは多分に、金属疲労的なものが生じているのだろうな。時代の流れが加速化して、それに追いつけずに相対的な距離が出てしまっている。だからこそ違和感を覚えさせるようなものが続々と創られてしまっている。
それはそれで一つの価値として認められ、評価すべきではあるのだけれど。先を進む者たちの足を引っ張るのは勘弁被りたいところではある。
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