同人・商業を問わず最近の漫画にはごく自然にスマホ、ツイッターやLINEの使用状況が表現として登場するように。「それが当たり前」という環境になってるってことですね。現在を舞台にした作品で黒電話でやり取りしたり、ブラウン管のテレビが使われてたら違和感を覚えます。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 4月 19
エクセルのバグかと思いきや実際にはもっと上のレベルでのトラブルが発生したことが判明し、ほぼ半日を費やしたものの状況の完全回復にまでは至らず、心身共に疲労コンパイル状態になりの脳がもやもやとした中でウェブ漫画をいくつかチェックしていた時に想った事。以前「自分を異邦人に見立てて楽しむ」話をしたけれど、それに近いことをふと思う。
この数年間で若年層にスマートフォンやツイッター、LINEが急速に普及し、それを使うのが半ば当たり前のような状況になった。それが良いのか否かは別として、それが事実であることに違いは無い。当たり前の状況である以上、「今」という時間・空間を切り取り、普通の日常生活を描写する作品では、それらが登場するのは当たり前。逆に、今の学生の生活を描写している漫画に、街中をダットサンやら人力車が走り回っていたり、家の電話がすべて黒電話で、それを使って友達と会話している情景が描写されていたら、違和感を覚えてしまう。
日常観を示すさりげない描写の変化の視点で作品、特に漫画やアニメを見るのも面白いのだけど、過去と比べて生活周りのツールの変化が加速度的に早くなっているので、昔の10年とこれからの10年は、随分と「差異」に違いが生じてくるだろうななあ、という感はある。「差異に違い」って日本語は変な感じだけど。
例えば1995年と2005年との間で日常の描写の違いを見ても、それほど大きな違いはないように見える。そりゃ色々な社会文化の変化や生活環境を取り巻く変化は生じているけれど、でも2005年と2015年との間の変化と比べれば、随分と大人しい。それほどまでに、この10年間は身の回りの環境、ライフスタイルに際立った動きがあったように覚える。さて、今現在の2015年と、10年後の2025年との間では、どれ程の違いが出てくるのだろうか。
その頃にはスマホも別のものに進化し(Apple Watchのようなものが主流になってるかも?)、LINEやツイッターもまったく別物になっているか、他のサービスにとってかわられてるかもしれない。あるいはインターネットの概念そのものからして別物になってる可能性すらある。
そんな時代になった時、2015年の「今」が描かれている作品を読み返したら、どのような気分になるのかなあ......とか、考えてみると興味深い。恐らくは今の時点で、2005年当時の日常を描いた作品を読んで覚える違和感とは段違いな差を感じるに違いない。
日常を描写する作品にとっては、結構頭の痛い話かもしれないけどね。
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