「誠意を尽くしても分からないものは排除してしまえ」と戦争行為の境界線

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そもそも「戦争」という言葉が示すものについて、認識が随分と曖昧だというのは、当方も以前から思っている。各国間が具体的に大規模な軍制部隊を指揮し、敵対行動として武器を使って攻撃する......的な雰囲気があるけれど、それじゃウクライナ周りのどたばたはどうなんだろう、あれって内紛とか紛争とか表現することが多く、戦争とは少々語られ方が違う感もあるし、中東の戦闘行為の数々も、戦争としての表現はあまり用いられていない。逆に、一定規模の集団による武装行為はすべて戦争と見なしていることもある。

さらにいえば、直接武器による応酬でなくとも、戦争行為と同じと見る場合もある。一方で、武装侵略行為が戦争で、それ以外は戦争では無いとの意見もある。どうももやもや。

で、上で指摘の通り、言葉の境界線を曖昧にして、あるいは曖昧なのを悪用......でいいのかな、して、少しずつ境界線を自分の都合の良いようにシフトしている感はある。「やくざの当たり屋と同じ」という表現は言い得て妙。

「先に相手に手を出させる「苛つかせて殴り掛からせる」ために、罵倒の限りを尽くす」、この手法を「戦術」「テクニック」「ノウハウ」として自慢げに語る筋は多い。特にジャーナリストと呼ばれる方々に。あるいは議員諸氏。でも映像などで中継されるその様相を見るに、「あれはやっちゃいけない事なのですヨ」という、子供向けの教材の感すらある。好例がNHKの会長に対して行った恫喝。あれはソ連時代の思想教育における「吊るし上げ」集会すら想起させられ、ぞっとした。嫌なものを思い出せてくれた。

ちなみに「吊るし上げ」ってのは本当に吊るすのではなく、中央に一人で椅子に座らわせ、あるいは立たせて、周囲四方八方から次々に罵声を浴びさせ、思想を強要する「洗脳」的教育行為ね。言葉による集団リンチと表した方が分かりやすいかも。


具体的にはこんな感じ。これとどこが違うのだろうかな。

「相手の感情を高ぶらせて本音を吐かせる事が真のジャーナリスト、政治家」
『それ、本当に相手の本心、本音と言えるの? 感情の高ぶった状態で正しい判断が出来ると思う?』
「そのためにはいかなる手段も正当化される。報道の、国民の代表としての責務、真実追求の手段だ」
『問題行為の正当化の詭弁じゃないの? オールマイティカードじゃないよ?』
「報道は、国民のための行動は何より優先されるべき」
『優先されるための責務守ってる? それは本当に望まれていること?』

みたいな。

戦争行為と何ら変わりない......というか戦争ですらない。

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このページは、不破雷蔵が2015年4月22日 07:08に書いた記事です。

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