「初めに結論ありき」の番組が増えているのは、「報道」が段々「想像」による「創造」にシフトしてしまっているのでしょうね。その方が楽=少リソースと技術で作れますので。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 5月 7
先日某所の神社周辺における取材で、ある意見を述べたら早々とインタビューを打ち切られたとの話がツイッター上で披露され、案の定翌日にそれとは逆の意見を述べる人達の話が長時間語られてコーナー自身が「その方面の意見が多数に及んでいる」との流れを受けていたとの話をちら見して。世の中100対ゼロではありえないから多様な意見があるのは事実ではあるけれど、大勢を少数から抽出して沢山に見せるってのは、今風にいえばコピペでのコラみたいなもので、悪質っていえば悪質だよなあということで。語感が似ていることから、報道と想像と創造をかけてみた次第。
全くの創造話ではなく、多分に事実的描写を織り交ぜた方が話は創りやすい(まさにラノベ的な創作)。しかもその方が確実に話を構築できるので、失敗した時のリソースの無駄が無くなる。予算が、リソースが、人材がと制作部局でのカツカツ状態を打破するには、失敗による無駄のリスクを減らした方が良い。想定以外の結論は、リソースのロスとの観点でも好ましくない。これは良くわかる。当方も検証したりリサーチした結果、半日ほどの作業がまったくの無駄骨となってしまった、お休みが潰れてしまったって経験、一度や二度じゃないから。
@dragon_i 結局、仮説と違った時に、仮説までの取材がパーになったり、考察し直すのが面倒くさいとか、リソースが勿体無いとかいうのが実情なのでしょう。余裕が無いから仕方がないという話は良く聞きます。言い訳として。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 5月 7
仮説を組み立てて色々調べたり取材をする事自身は悪くない。むしろ賢い。あたりをつけるってやつ。ただそれを行って仮説と異なった時に破棄するリソースが勿体無いって話になると、目的と手段が逆転してしまう。
昔ならそれでも騙せたのだろうけど、今は容易に(少なくとも比較論だけど)一次ソースをたどってそれが事実報道なのか偏見や誤解釈によるものなのかを検証できる事例が増えている。現場や当事者の声も直接入るようになっている。
少なくとも以前と同じような姿勢や仕組みで臨むと、これまでの常識が通用しない事例が多分に出てきたってことだよね。
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