「それを幾らで欲しいか?」と「それを自分で作ったとしたら幾らで売りたいか?」を訊ねる教育って大事っすね QT @suika_sheep: @azukiglg
価格考察はある意味パンドラの箱ですが、義務教育に組み込んだ時に、重商主義政策の国にとってはデメリットよりメリットの方がで
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
「自販機で買ってきたジュースを他人に売るとしたら幾らで売りたいか?」「自分と同じことをする奴が現れたらどうするか?」とかね QT @tyurukichi_AA: その先に、「協力者に稼ぎの何割を支払いたいか?」が出てくるんでしょうかね
RT @azukiglg: 「それを幾らで欲
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
算数の授業と並行して、小学校低学年から始めてもいいのかもしれんなあ。
んで、「班ごとの作業」とか、「先生に何か頼まれたら幾ら貰える」とか、「日直報酬」とかを、校内通貨で支払う、受け取るとか。
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
どこまで歴史をさかのぼれば良いのか、あるいはもっと社会学的な話なのかもしれないけれど、どうも「お金ってのは汚い、少なくともキレイでは無い」的な概念が、日本の中には相応に浸透しているらしい。「お金の話なんてするなよな」的な言い回しが、ごく普通に飛び交う状況を思い返せば、容易に理解は出来る。
でもお金って、結局色々な物事、形になるもの・なっていないものの代替手段であり、物差しであり、蓄積できる便利ツールでもある。お金がどのようなものなのか、その概念を把握し、理解し、日常生活において物差しの一つとして取り込むことは、決して悪いことでは無い。お金はすべてではないけれど、お金が無くては生きていけない。そして「すべてではない」ってことは「大体は代替できる」ってことをも意味する。シャレでは無いよ。
数字そのものの取扱いは算数・数学に該当するし、あるいは道徳的なものにも一部被るのだろうけど、金融学的なものを義務教育の段階で組み込むことは、案外重要な話なのかもしれない。教育課程が増えるからイヤだ、なんていう反対派も出てくるだろうけど。
商品点数の多い【企業】はそれでいいけど、個々の製品を納めるのに大きな企業以外(零細下請けや個人)が関わってた場合たまったもんじゃないですけどね QT @3rw1kai: @azukiglg @suika_sheep
それの原価が幾らであれ、
「幾らで売れるか」「競合商品は幾らか
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
こないだの酒の安売りの話とかでもそうだけど、「じゃあ、一点で収益が出せない零細企業や個人が悪い。社員になれ」「いやなら淘汰されろ」というのが常に正しいのかっていう話になる。
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
個人経営の居酒屋全部潰して、繁華街の店が全部ワタミになったら、それは正しいのか?みたいなw
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
ちょいと話はそれるかもしれないけれど、これも経済概念の上では欠かせない話。リスク分散的なものね。一方面の観念、つまりある特定の切り口における効率化の上では、統一化した方が良い。収益性が一番で無いものは淘汰された方が良いってことになる。
で、問題なのは淘汰されて残った勝ち組が、ずっとその状態を維持するとは限らないってこと。多様化が無くなり画一化が起きると、効率性は高まるけれど状況的に閉塞してしまい、かえってリスクは高くなる。当方の身近な例でも、個人経営のお店や類似の100均ショップなどを駆逐したローソン100があちこちにできまくった後、ローソン側の方針転換でローソン100がいきなり続々と閉店してしまって、当方自身も含め、周辺の住民は結構難儀するって感じ。
もっと分かりやすい例では生物の進化かな。環境への適応が極端すぎると、ちょっとした変化に対応できなくなってしまうってもの。だから多様化は、一歩引いた際の保険的なものとなる。要はリスク分散の考え方。あとは進化の際の袋小路を避ける意味合いもある。
@azukiglg (・w・) 昔の小学校では牛乳の蓋を仮想通貨にしてイベントで使えるようにして買い物関連の知識を学ばせたものです。
納得いかないのはすべて使い切ると計画性がないと言われたことですね。そのイベントが終わってしまえば使えなくなる代物だというのに
— moltoke◆Rumia1p (@moltoke_Rumia1p) 2015, 5月 16
だいたいレモネード売ってる(`・ω・´) QT @tyurukichi_AA: @azukiglg 金持ち父さんの本で言ってたのが、商売で成功する人ほど幼少の頃からモノを売った経験があったそうで。
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
最終的に最も多く集めた物を円に兌換できれば(ry QT @moltoke_Rumia1p: @azukiglg (・w・) 昔の小学校では牛乳の蓋を仮想通貨にしてイベントで使えるようにして買い物関連の知識を学ばせたものです。
納得いかないのはすべて使い切ると計画性がないと言われ
— 「超」怖い話 怪顧【加藤AZUKI】 (@azukiglg) 2015, 5月 16
@azukiglg @moltoke_Rumia1p
この話を思い出しましたわ。
俺のクラスでシャーペンの芯が通貨になった話
http://t.co/YaKI8cPd5E
— Rogue Monk (@Rogue_Monk) 2015, 5月 16
学校内での仮想通貨というと以前【オモシロ真面目な「貿易ゲーム」って何だろう】で紹介した「貿易ゲーム」なるものが思い出される。これは特定時間内だけの縛りがあるけれど、それを学校内生活で継続的に利用させようというもの。
これ、色々と前提となる仕組みを作るのが難しい(実際のお金を使うと色々と問題が生じるのでアウト)。とはいえ、色々な複合効果をもたらすことが期待できる。例えば仮想通貨を偽造する人も出てくるはずで、そのような場合、どんなトラブルが生じ得るのか、それを防ぐためにはどのような仕組みが求められるのか。あるいは他人の仮想通貨を奪い取ろうとする動きもあるかもしれない。それが成されないような仕組みはどう構築すべきか、罰則を設けるべきか、善意に任せるべきか。学年別に仮想通貨の種類を変えて、為替的な概念も登場させても良いかもしれない。「3コインで掃除代わります」的なアルバイトのようなものも登場する可能性もある。
お金の概念は資本主義社会においては社会の根幹に当たるもの。それを取り込むことで、色々な社会の問題点やルールが疑似的に登場し、求められ、経験できる機会が生じることになる。大人になってから「そんなの知らなかったヨ」と恥をかいたり損をするリスクが減るだけでも、大きな効用じゃないのかな。
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