わからないこと、知らないことを、「わからない」「知らない」と言えないといかんよ。たまに「知らない」と言ったら負けと思ってるのか、そう言わずに知ったかぶりをするひといるけど、それやってると周囲のひとが何も教えてくれなくなるから損ですよ。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2015, 5月 17
歳には関係なく、むしろ肩書を有していたり特定分野で一家言を持つように認識されている人であったり、メディアで活躍している(ように見える)人だったり、有料メルマガや講演会で稼いでいる人だったり、有識者的な立場にいる人ほど多いように見うけられるけれど、分からないことや知らないことを、分かっているふりをしたり、知っているように振る舞う事案がある。本当に勘違いして覚えていたり、間違って覚えているのなら仕方がないのだけど、実際には知らない・分からないにも関わらず、そこでそのように表明してしまうと恥ずかしい、自分の権威が損なわれると思い、俗にいう「知ったかぶり」をするというもの。
昔ならばそれでも何とかなった。その類で聞かれる、語る必要があるものは大抵重要度は低く、すぐに人の記憶からは忘れ去られてしまうから。自他共に「無かったこと」に出来る。
でも今は違う。
テレビやラジオは録画録音され、新聞や雑誌は切抜きされ保全される。それら物理媒体的なものではいつか散失し、忘れらされてしまう可能性が高かったけれど、今ではそれらがデジタル的にアーカイブ化され、無くなる可能性は随分と低くなった(断片的な保全で役に立たなかったり、記録として不確かなものになったり、手が加えられて事実がねつ造されることもあるけれど)。そしてネット上で発せられた情報は蓄積され、検索対象となり、過去の語りも即時に抽出され、掘り起こされる。
また、本当は分からない、知らないのにも関わらず分かっている、知っているとのそぶりを見せると、そこで自分の知識を蓄積する機会が失われてしまう。折角知識の共有、増強の機会が得られたのに、それを袖に振ってしまうことになる。ああ、もったいない。しかもそれを繰り返していると、しまいには周囲からのアプローチも無くなってしまう。みずから閉じてしまったら、外の空気はすえなくなる。
指摘の通り、まさに「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」。ちょっとした恥に想えても、それが自分にとって補完材料となるのなら、喜んで恥をかかねば、と思うのがポジティブな考え方なんだろうな。
......まぁ、「知らない」と宣言しても、アプローチがあるか否か、教えてくれる人がいてもそれが正しいか否かはまた別の問題なのだけれども(汗)。
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