オスプレイの事故とその原因と報道の質と

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先日のオスプレイの事故に関しては想定通り「いつもの」的な場所から「いつもの」的な語りがなされてツッコミするのもリソースの無駄かな、専門家の検証が済んでからそっとザックリと......と思ってはいたのだけど。それに絡んで報道周りの話がちょいとまとめられていたので、自分自身の覚え書き、思考整理も兼ねて。

この「見えないものが見える」ってのは事故直後からの記事やツイートなどでもよくある話で、たどっていくと大よそ最初に結論ありきってのが多い。まぁ大抵はそのような話のつなげ方をしているとどこかで破たんしている部分があるのだけど、勢いで通してしまうってのはいつもの通り。感情論、問題のすり替え、こんな思いを自分はしている(から内容的に破たんをしていても文句を言うな)。日本語は通じるけれど、話が通じない、何か別の世界線の人がいる感じ。


こんな感じで論理立てて説明すれば特に問題も無く事故のニュースとして伝えられ、しっかりとした報道となる。しかし昨今の報道内容を観る限り、そうとは言い切れない。以前にも何度か触れているけれど、ネットによる可視化ってのはアマチュアと専門家、在野の(本当の意味での)見識者との境目を取り払ってしまったため、既存の報道が発する内容は押し並べて専門家が語る真実、あるいはそれに近いものだという前提が次から次へと崩れる事案が生じている。。いや、もとからそうだったのかもしれないけど。

報道のは分かりやすい? 分かりやすいと正しいは別物よ。分かりやすくても正しくなければ、それは報道といえるのかな、ということになる。


世の中の構造が複雑になって可視化できる部分が増えてくると、すべての物事に対して専門家の視点で報道するってのは不可能になる。よほどの専門的な紙面でない限り。これからの記者には広く浅く、これはおかしい、これはどうなんだろうかと頭の中にハテナマークを浮かべられる幅広いアンテナを持ち、そのアンテナにひっかかったものに対して自分で調べたり、正しい専門家に積極的に問い合わせをしてその内容をまとめ上げる引出しを持つ必要がある。この構造は、これまでの「自分の中だけで大よそシナリオを作っておいて、他の情報で補完する」って感じの、これまでの報道姿勢とは大きく異なる。そのシフトが求められている現状で、なおもこれまでのスタイルを使い続けようとしているがため、生成される記事そのものに軋みが生じているのかもしれない。

先日の「被害者は実名で。その方が人々の心に刻まれる」云々って話も、結局は感情論での報道姿勢が主軸であることを暴露してしまっているようなもの。世の中の仕組みが曖昧で単純ならばそれもありだけど、今ではそういう手法は弊害の方が多くなる。ウケはいいのだろうし、短期的な利益はあげられるだろうけどね。ただそれって、余命をよけいに縮ませるだけな気がするんだけどな。個々の記者の、媒体としての信用性の。

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このページは、不破雷蔵が2015年5月22日 07:39に書いた記事です。

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