ハワイのオスプレイの事故、動画を見ても「あー、セットリング・ウィズ・パワーに陥っちゃったねえ。操縦ミスだわ」としか思えないのですが、「どう見ても機体欠陥による事故なのに、操縦ミスにしやがって」みたいなツイートを昨日から沢山見かけます。見えないものが見える超能力者が大勢いるようです
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
先日のオスプレイの事故に関しては想定通り「いつもの」的な場所から「いつもの」的な語りがなされてツッコミするのもリソースの無駄かな、専門家の検証が済んでからそっとザックリと......と思ってはいたのだけど。それに絡んで報道周りの話がちょいとまとめられていたので、自分自身の覚え書き、思考整理も兼ねて。
この「見えないものが見える」ってのは事故直後からの記事やツイートなどでもよくある話で、たどっていくと大よそ最初に結論ありきってのが多い。まぁ大抵はそのような話のつなげ方をしているとどこかで破たんしている部分があるのだけど、勢いで通してしまうってのはいつもの通り。感情論、問題のすり替え、こんな思いを自分はしている(から内容的に破たんをしていても文句を言うな)。日本語は通じるけれど、話が通じない、何か別の世界線の人がいる感じ。
航空関係の知識があればあるほど、「機体欠陥」というのは一番たどり着きにくい答えではあるけど、知識が無い人にとってはそこに帰結させるのが一番負担が掛からないし、中身を説明する必要も無いから極めてラクなんですよね。「似たようことを言い出す人が多ければもっとラク」だから。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
まあ、セットリング・ウィズ・パワーなんていう現象が存在することを「知らない」という人の方が多々ですから、それはやむをえないことなのかもしれない。ただ、マスコミは「こうした現象も考えられる」という方向で報じることも可能なわけです。それを怠って殊更に危険を強調しているのはいけません。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
「自機のローターが作り出した下降気流の中に入ると制御不能になる」、「それによる事故は過去にも起きている」、「回転翼機の着陸時における事故としては珍しくない」、この3点をちゃんと報じていれば、今の時点で米軍が「機体欠陥ではない」と判断に至ったとこもわかりやすく説明できるんですよ。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
こんな感じで論理立てて説明すれば特に問題も無く事故のニュースとして伝えられ、しっかりとした報道となる。しかし昨今の報道内容を観る限り、そうとは言い切れない。以前にも何度か触れているけれど、ネットによる可視化ってのはアマチュアと専門家、在野の(本当の意味での)見識者との境目を取り払ってしまったため、既存の報道が発する内容は押し並べて専門家が語る真実、あるいはそれに近いものだという前提が次から次へと崩れる事案が生じている。。いや、もとからそうだったのかもしれないけど。
報道のは分かりやすい? 分かりやすいと正しいは別物よ。分かりやすくても正しくなければ、それは報道といえるのかな、ということになる。
ここ数年、日本の新聞社、テレビ局の記者の質は急激に低下しているし、リサーチ能力は皆無に近い状況なので仕方ないのかもしれないけど、彼らが仕事をしないことで世の中の認識が誤った方向に加速していることはもっと危機感をもたなくてはいけない。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
ハワイのオスプレイ事故の動画は一般市民が客観視点で撮影したものだし、セットリング・ウィズ・パワーを原因とした事故の典型例でもある。回転翼機の操縦教科書に含めたいぐらい「一目でわかるセットリング・ウィズ・パワーの危険性」なんですよね。そこに着目できる記者がないのがマジで大問題。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
セットリング・ウィズ・パワー状態に陥ったら「もうダメぽ...」というわけでもない、回避方法はちゃんと存在するわけです。ゆえに「操縦ミス」という側面が強くなってくる。まあ、ゼロリスク信仰者が言うような「完全に...」ではないものの、「危機を脱する程度には...」ですけどね。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
まあ、日本のマスコミだと「他社と横並び」が求められるし、「何か突飛なことを書いたらお前は責任を取れるのか」と上司に詰問されることも多々なので、「結果として無難なものしか出来上がらない」なんていうのも珍しくない。構造欠陥はオスプレイの機体ではなく、報じるマスコミにあるって感じ。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
日本では「オスプレイは危険なモノでなくてはならない」という方向性がすでに形成されていて、新聞の場合は主要購買層である高齢者ほどその傾向が顕著だと思われるので、報道もそっちに傾いてしまいがちなんだよね。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
てか、「コンセントプラグが入ってねーし」な状態かもしれません。「PCのOSより、言っている本人の知識をアップデートする方が先だろ」的な...。 RT @JapTheRipper227: 「パソコンが動かない!壊れた!」→設定ミスであって本体は異常なしみたいな感じでしょうか?
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
原発事故の頃から言われているけど、「安全」というのは数値等で理性的に説明できる。それを受け入れるかどうかは別としても説明は出来る。
ただし、「安心」は個々の思想信条に基づくものなので、一度決めたら頑として説明を受け入れないことは多々だし、データに基づかない感情論でのみ反論する。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
神経質な人ほど、設定する「安心」の基準が高いし、あまりに高すぎてゼロリスク信仰のようなものに傾いていく。「世の中にゼロリスクなんて存在しない」ということが認められなくなり、個々が設定した基準が安心の最低条件となっていく。悪循環そのものなんだけど、それに気がつける人はそうならない。
— sis_sis (@sis_sis) 2015, 5月 20
世の中の構造が複雑になって可視化できる部分が増えてくると、すべての物事に対して専門家の視点で報道するってのは不可能になる。よほどの専門的な紙面でない限り。これからの記者には広く浅く、これはおかしい、これはどうなんだろうかと頭の中にハテナマークを浮かべられる幅広いアンテナを持ち、そのアンテナにひっかかったものに対して自分で調べたり、正しい専門家に積極的に問い合わせをしてその内容をまとめ上げる引出しを持つ必要がある。この構造は、これまでの「自分の中だけで大よそシナリオを作っておいて、他の情報で補完する」って感じの、これまでの報道姿勢とは大きく異なる。そのシフトが求められている現状で、なおもこれまでのスタイルを使い続けようとしているがため、生成される記事そのものに軋みが生じているのかもしれない。
先日の「被害者は実名で。その方が人々の心に刻まれる」云々って話も、結局は感情論での報道姿勢が主軸であることを暴露してしまっているようなもの。世の中の仕組みが曖昧で単純ならばそれもありだけど、今ではそういう手法は弊害の方が多くなる。ウケはいいのだろうし、短期的な利益はあげられるだろうけどね。ただそれって、余命をよけいに縮ませるだけな気がするんだけどな。個々の記者の、媒体としての信用性の。
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