昨夜の一連のデマに関するツイート、色々と補足や訂正したい事が出てきたので後でツイートさせて頂きます。それについて今息子と話してた。1番キモなのは「真実でないものは拡散しちゃダメ」なのではなく、「他人の憶測で疑惑を補強するな、悪魔の証明を求めるな、自分で悪を裁こうとするな」という話
— よく眠りたまに色々考える主婦 (@toppinpararin) 2015, 5月 27
→さて昨日のデマに関するツイートの続きを。すこし冷静になった頭で考えると、昨日は私も息子から聞かされた話が少なからずショックで、断定的な口調になってしまっていたなと。ネットの情報に関する真偽は、そもそも判定可能なものと不可能なものがある、という前提の説明をすっ飛ばしてしまった
— よく眠りたまに色々考える主婦 (@toppinpararin) 2015, 5月 28
先日の【そうか、子供って「閉じられた社会」で情報のやり取りをしてるからガセネタも広まりやすいのか】の後日談的な話。子供の認識生活社会が比較的狭い、閉じられた場にあることから、ガセネタの類も容易に集約されやすい、まぁ言葉は悪いけれど蠱毒的なものになるって話はよく分かるし、実態を思い返してみれば容易に理解できるものなんだけど、その元ネタになったガセネタに対し、かみつきをしてくる方々がおられたらしい。なにをそこまでムキになっているのか、否定された位で全人格を消されるわけでもないのに、とは思うのだけど。
まぁ、デマを肯定する側にしてみれば、否定されること自身がデマのようなもので、その周知はよろしくない状況であるとの認識があるのだろうな。数理的、合理的、公的データを持ち出して説明しても、陰謀論なりよくわからない方面のトンデモ説を持ち出して否定するようなパターンによく似ている。
→私が例の件をデマだと断定したのは、それが無実の証明が不可能な、不特定多数の憶測によるただの解釈だからで。仮に「元々反日発言をしていた」事実があるとして、その事実を指摘するだけならデマではないけれども(それをネットで袋叩きにするのは個人的にはウヘェと思うけど)、火のない所に煙は→
— よく眠りたまに色々考える主婦 (@toppinpararin) 2015, 5月 28
立たない、過去にこういうことを言っていたからこういう解釈をされても仕方ない、こんなに証拠(という名の憶測こじつけ)が上がっている、よってこれは間違いない事実!という理屈には物凄い飛躍があるよね。
— よく眠りたまに色々考える主婦 (@toppinpararin) 2015, 5月 28
→昨日色んなリプライ頂いて。中にはブロックされた方もいて読めないので覚えてる限りですが、「本人が疑惑を否定するのは当たり前」「政治家の発言にも同じことを言うのか」「警察だって否認する犯人の証拠を集めて追い込む」。これ怖いなと。発言そのものと、発言に対する解釈とを完全に混同してる
— よく眠りたまに色々考える主婦 (@toppinpararin) 2015, 5月 28
→「お前の発言はこういうけしからん内容であると読み取れる!違うと言うなら証拠を出せ!出せなければ俺たちが裁く!」ということですよね。そんなもん無理。悪魔の証明というやつ。そもそもこの件に関して彼らは法に触れることなんてしていないし、私たちに裁く権限も当然ないわけで
— よく眠りたまに色々考える主婦 (@toppinpararin) 2015, 5月 28
→息子にも今朝、「この人はこんな事を言っているから良くない」というのと、「この人の言うことはこういう風にも読み取れるから良くない」というのは全く違う話だし、更に「良くないから皆んなで叩いて直させなきゃ」というのもまた別の話でお母さんそういうの好きじゃないなぁと改めて話をしました。
— よく眠りたまに色々考える主婦 (@toppinpararin) 2015, 5月 28
確かに世の中には100%確実に事実であるってのはなかなか見出しにくい。今件の事例でも本当に指摘されているガセネタの内容が一部は事実かもしれないし、何だかよくわからない、一般人には認識できない悪の意識の集合体による巧みな工作の結果かもしれない。世界支配層の陰謀かもしれない。
しかしそれは確率論的に考えれば、それが「事実かも」という可能性のレベルですら随分と低いもので、無視しても構わない範囲のもの。それをわざわざ持ち上げて、肯定し、周知認識させることにどれだけの意味があるのか。あるいはそうさせる意図こそが、陰謀なのかもしれない。そこまで考えれば、いかに不毛なことかは理解できるはず。もし動かぬ証拠を呈する事が出来れば、それが裏付け出来れば、その時に思いっきり、フルスロットルで必要な措置を取れば良いまでの話。
その点では今件指摘の通り、解釈の時点で憶測が多分に混じり、そんな考え方もあるよね、レベルのものだから。考察としては興味深いけれど、それを事実として認識するのはどうなんだろうか。そして段々と話が飛躍して、確定情報に登っていくプロセスは、まさに大人社会におけるデマの形成過程と何ら変わりはない。むしろ子供だからこそ、その過程が非常にシンプルな形で見えている。
結局のところ、論理の飛躍、その際の無理な軌道修正、あるいは結論ありきでの無理な背伸びの連続で一つの事実のような虚報を生み出す仕組みを説明し、それは良いことなのだろうか、いやそんなはずは無いよね、ましてやそこから生み出される義侠心的なものも、その軸となるものが危ういのだから、踊らされているだけ、単なる暴走行為でしかなくなってしまう。
一番の肝はやっぱり最初に語られている「他人の憶測で疑惑を補強するな」「悪魔の証明を求めるな」「自分で悪を裁こうとするな」かなぁ。某弁護士先生にずばりと当てはまるような感もあるし、多分の自戒も覚えながら。
コメントする