後輩の1人が酒鬼薔薇本を買ってきた。不本意だが自主性に任せた所、当時生まれていなかった中2の弟子が読んだ様で「幼い子供を殺して、さあゲームの始まりですって相当カッコ悪いすよね。この人、もう30超えたおっさんなのにこんな本出すなんて惨めな男ですね」と言っていた。冷静な意見に驚愕した
— 佐原敏剛 (@saharabingo) 2015, 6月 19
戦争を論じる際「当時、生まれてない癖に知った様な事を言うな」と言う年寄りがいるが、先程の酒鬼薔薇を論じた中2の後輩の様にリアルタイムで関わっていないからこそ感情的に巻き込まれず、冷静な分析ができる事もあると、この弟子に教えられた。老いては子に従えではないが、年少者から学ぶ事は多い
— 佐原敏剛 (@saharabingo) 2015, 6月 19
因みにリアルタイムで酒鬼薔薇事件の報道を見た30代の後輩たちは、この本を出した事への犯人、編集者、出版社のモラル、読むべきかどうか、といった本の周囲の論議ばかりでまるで本質に触れられなかったのである。中2の後輩の言った様に「過ちから学べなかった惨めな男」が本件の本質なのやも知れぬ
— 佐原敏剛 (@saharabingo) 2015, 6月 19
直前の記事【ネットは便利な情報検索ツールで山ほどの情報が手に入るようになったけど、それがすべてじゃない】ではネットの情報がすべてではない、現場の、リアルな情報も山ほどあって大切だよということを伝えたけれど、それとは似て非なる、共通点もある一方で、相反する部分もある話。例のアノ本に関するお話で、その本自身に関する当方の評価はさておき、今件の視点は非常に興味深い。
現場の、当時の状況や雰囲気を知ることは大切だけれど、リアルであるからこそ印象は強く、心に刻み込まれる。だからこそ一部報道では多くの人達に覚えてもらうという大義名分のもと、実名報道を振りかざす次第で。
ところがそのリアルさによる影響力が大きすぎると、冷静な判断にはマイナスに作用することも多い。例の「戦場ジャーナリスト」が良い例(これはむしろ悪用している事例だろうけど)。リアルな、現実の、雰囲気の香りをかぎ取っているだけに、その印象に呪縛されてしまうと表現すればいいのかな。感情論からすれば仕方ないのだけど、それは正解への歩みを邪魔させる可能性が高い。
この「リアルを知っているからこそ生じる、ノイズ化をもたらす逆フィルタ」、ぶっちゃけると「偏見」の類ってのは、例えば徴兵制云々をはじめとした軍事的なお話を一例に挙げても良くわかる。昔の様式がそのまま現在でもシフトしたかのような話が正論だとして主張される。「昔あったから今もあるかもしれない」。いや、昔と今とでは環境も全然違うのよ。前にも言ったかな、それこそ墾田永年私財法が過去に行われたので、また行われるかもしれないと語っているようなもの。
これは自戒の意味も込めて。
理系の後輩が「俺は証拠がない物は信じないんで、著者近影がないと当人が書いたと信じません。酒鬼薔薇が平穏な暮らしを望み、出版社がゴーストに書かせた物を出しても、文句言えない立場なら出版社のやりたい放題すよね」と言っていた。この後輩は乙武銀座騒動にも画期的な解決案を出した切れ者である
— 佐原敏剛 (@saharabingo) 2015, 6月 21
今件も、感情や当時の雰囲気に毒されない視点から出てきた、なるほど感のある分析......というか恐らくは、今件書籍の最大の問題点。ゴーストだろうと本人だろうと別人の妄想的な内容だろうと、それのどれが正しいのかは立証するすべがない。つまりいたこや背後霊が語る的な内容の本を、当事者が書いたと断じて販売しても良いということになってしまう。
見方を変えれば書籍そのもののへの信頼性が著しく損なわれる。これがアリなら、これまでの書籍だって、同じような可能性はあるんじゃない? と疑われてしまう。ある意味今件書籍は、超えちゃいけないガイドラインを堂々と超えてしまったわけだ。表現の自由やらなんやらと肯定する向きもあるけれど、この指摘にはどのような解消法があるのかねえ。気になる話ではある。
コメントする