怒りのデスロード、ダメだった妻とOKだった私。妻はたとえば途中で仲間になる若い男がボスや仲間を裏切って味方につく心の変化があいまいでご都合主義に見えるというのだが、私は確かに描写は甘いかもしれないが、愛や自己承認に飢えて居場所を求めている不安定なキャラとして全然納得だった。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
続き)もっと明確なわかりやすいエピソードを入れようと思えば2~3分でも可能かもしれないが、私はなくてもかまわない。あれが何十年も特定の主義主張に凝り固まって生きてきた生き方上書き困難な老人キャラなら別だが、あの若い衆なら十分じゃないかと思う。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
多分に妙なノリとネタ的な楽しみ方と徹夜明けの会議における奇妙なテンションの状況に近いものがあると思うのだけど、「マッドマックス」の最新作の評判が良い。良いといっても素直な評価というよりは、何か奇妙で面白いものに遭遇した時に、友達を呼んで一緒に見てみようぜ、的な雰囲気。
で、大よその感想として挙げられるが、上にもあるような割り切りすぎるまでのご都合主義。前世紀のアニメや漫画などではよく見られた、ノリが優先して細かい部分の矛盾やおかしなところが散在しているという感じ。例えが微妙だけど、初代のアニメ版「宇宙戦艦ヤマト」的な(漫画版のキン肉マンでもいいけれど)。
好き嫌いは人それぞれなのでどちらもアリなのだけど、見方を変えればそのご都合主義をもカバーしきれるほどの魅力にあふれているとの解釈もできる。
つじつまの合わない人生を送る人がせめてフィクションの中だけでもつじつま合わせを願うのかもしれないが、人間の理解できるつじつまなどというものは実はほとんどこの世にないと思う。極悪殺人鬼はなぜこんな犯行を犯すにいたったのか、の理由が幼少期の虐待とかいう説明で納得できる人は別として。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
人生はほとんどは運や偶然で成り立っている。たとえば私のようなマイナーな漫画家かなぜ三十数年も生き延びているのか。努力はした。多少才能のカケラもあったかもしれない。だがもっと努力してもっと才能があったのに消えた人もいる。そこにすべての人が納得できるつじつまなどない。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
きょうもこんなことがあった。2日くらい前から調べてる資料に使えそうな画像が、いろいろ単語をとっかえひっかえして検索しても見つからない。途方にくれていたら、たまたま昨日妻が録画してたテレビ番組の冒頭に出てきた。なんの打ち合わせもない偶然だが、私の人生ではしばしばある。これが人生だ。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
人生は運が大きいからといって私は努力を放棄したりしない。努力をする性格に遺伝的に生まれついたか、成長期の体験でそうなったのかは知らない。しかしそういう遺伝的性質や体験は私の決めた事じゃない。そういう意味では運である。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
物語の展開が偶然で決まるのは納得できないという人は、よほど偶然に恵まれない人生なのかと思う。私は恵まれているので気にしませんw 生物進化はどうでしょう。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
田舎の母は長い患いなのだけど、今みたいに身動きできなくなる前の健常者だったころ、年に一度だけ上京して診てもらいにいく病院があった。ある時、たまたま新幹線のホームで時間をつぶしているとき話したおじさんと、別の年に再開したことがあったという。後にも先にも一度きり。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
再掲だけど、私が小池一夫先生の劇画村塾の一期生になったのは、77年受験で上京するとき、たまたまキヨスクで母がひまつぶしに車中で読めばと買って渡してくれた雑誌に募集広告が載っていたから。あの一瞬で漫画家人生のかなりが変わったと思う。必要なときに必要なキャラがなすべきことをする人生。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) 2015, 6月 26
で、話は転じてリアルな人生を考え直してみると、つじつまの合わない、例えるならばスゴロクで必ず毎回3しか進まないようなものでは無く、毎回進むコマ数が1から6まで変化を遂げる、さらには盤上からサイコロを落としてしまいペナルティで一回休みまであるような、そんなランダム的要素ばかりの、運や偶然が盛りだくさんの流れの中で進んでいるってのは、結構的を射ている気がする。
振り返れば無数の選択肢があり、その分岐点で別の方向を進んでいれば、必ず違った結果が出ているはずだけど、それがどうなるかは分からないし、その選択肢で現状に至るものを選んだのは、多分にその時その時の運や偶然によるもの。努力や備えはその確率を少しでも自分の思う通りに動かすための修正値を与えているに過ぎない。学生の時にテストで良い点を取れば(取るように勉強すれば)、それだけ人生の、自分の好きなものがあるかもしれない選択肢が、増えていく、みたいな。
ストーリーテラーとして、偶然ばかりが続くと面白くもなんともないし、ハチャメチャなものになり、それ自身が楽しいもので無い限りは、別の面で面白さを演出する必要がある。あるいは逆で、その「別の面での面白さ」のために、ご都合主義を是認してしまうのかもしれない。
人の人生もあるいは、そんな部分もあるのかもしれないな、と思うと、今現在が不遇だったとしても、今後に続く何かの偶然のための前説みたいなものだと考えれば、少しは気が休まるような気がする。蒔いた種がいつ芽を出してくるか分からない。運や偶然で人生が成り立つならば、それらが発動するためには、やはり努力を続けて蓄積し、そのサイコロ振りを繰り返す必要があるだろう。
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