(新聞記者の多くは実名・実所属を公開してTWされている方が多いのですが、自社記事を抽出するしないは別として、問題発言をしたり、世間一般の常識とは異なる意見をその肩書で発言して多くの人の首を傾げさせたり、資質を疑われるような対応をする事例では、朝日新聞所属が多いのはなぜなのだろう)
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 6月 23
先日の沖縄の式典で限っても、シンガポールを持ち出して独立云々とか、野次を正当化するような発言。双方とも朝日新聞記者。しかも双方とも、問題提起的な言い回しや、世間ではこうに違いないという形で、詭弁的に自分自身の言ではないような表現。実質的に主張と同じなのですけどね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 6月 23
この辺りを見ても、違和感......というよりは、薄気味悪さ、何か軸が外れたまま加速している暴走機関車を観ているような、悪質系の新興宗教団体の言及に触れているような、背筋が凍るような不気味さを覚えさせるのです。当方だけの、思い過ごしかもしれませんが。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 6月 23
これは出版をはじめとしたメディア関係者に良く見られるパターンで、実名や実所属を公開した上でインターネット上、特にソーシャルメディアで色々と発言をする人が極めて多い。普段は所属団体の創生物について、その立場から色々と言及をするけれど、何か問題が生じる、都合が悪くなると、団体とは無関係であるとの意思表明をする。
しかしプロフィール中でどのような宣言をしていても、実名あるいはそれに近い通称と、所属団体の肩書を公知している以上、その肩書を背負った発言であり、人物としてその団体が有するメディアと連動していることを忘れてはならない。政治家や企業関係者、それこそ広報アカウントですら、そこでの発言はその団体所属の人物の言及であるとして認識し、さらに団体全体の意志発言としてすら認識されうる。それは報道側がよく行う方法論である一方、なぜか新聞やテレビ関係者にはそれが通用しないと思っている筋がある。
「個人的意見で」「個人の主観で」語りたいのなら、肩書は一切表明せず、肩書を連想させない別名でソーシャルメディア上で発言すれば良いまでの話。肩書を明記し、個人を特定させた時点で「所属団体」の権威を用いていることになりますから、同時に責を負うのは当然の話なのですね。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 6月 23
本当に「自分の発言は所属団体とは無関係です」とするのなら、別名なりペンネームなりでアカウントを取得し、肩書を公知せずに一個人として発言すれば良いまでの話。都合の良い時は所属団体を表明してその権威を用い、都合が悪くなったら一個人であり云々ってのは、食欲を満たすために食事を摂り、その代金を支払わない食い逃げと同じ。それが出来ないのなら、実名かつ所属団体を表明した以上、その所属団体を背負った発言であることを肝に銘じる必要がある。広報の言及と何ら変わりがない。
先日の朝日新聞の結構上の方の記者な方の発言といい、先ほど見つけた結構著名な作家の方の妄言といい、ネットの浸透による「可視化」ってのは、既存の価値観の瓦解と、本物を見つける事の能力の必要性をさらに高めることにつながるのだな、と実感させられる次第。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 6月 24
"専門家が思想を持つのは自由。でも、その思想に影響されて自分の専門分野で嘘をついたり誤魔化しをするようになったら、もう専門家としてはおしまいですよ。それはもうただの害悪。" https://t.co/OO3I3kENX5 この事例が余りにも多すぎて。
— 不破雷蔵(懐中時計) (@Fuwarin) 2015, 6月 24
まぁ、でも、ある意味ネット上で肩書付きの実名あるいは通称で言及がなされることにより、書き手側の実情が把握できるってのは、可視化との観点では望ましいかもしれない。既存の価値観の瓦解と、本物を見つける事の能力の必要性が改めて思いおこされる。
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