フジテレビ27時間TV車破壊の歴史
1991年:明石家さんまの車破損→「ギャハハ」
1992年:さんまの車破損→「ギャハハ」
1993年:さんまの車彫刻に→「ギャハハ」
2008年:さんまと岡村隆史の車破損→「ギャハハ」
2015年:吉村崇の車破損→炎上
これが時代の流れである
— 豆八郎 (@eightyro_oka) 2015, 7月 26
今件については生放送で観る機会が無く、動画収録部分を探してもアクセス稼ぎの中身が無い動画か、奇妙な踊りを踊るユーチューバーのものしかなく、断片的な情報の紡ぎあわせということになるのだけど。少なくともリアルタイム検索まで合わせて情報を精査しても、あまり良いリアクションは得られていない。
個人的にはどのようなものであろうとも、他人のモノを壊して周囲で笑ってそれをネタにするってのはあまり気分の良いモノじゃない。子供の時に似たようないじめを受けたことが何度もあったから。指摘されている限りにおいては、昔はまた「相応に大御所同士による戯れ」的なものが多分にあったのだろうけど、それでもポジティブな意味での評価はさほど無かったような感はある。
今件はさらに対象者の格が異なること、モノに対する価値観が違ってきたこと、そしてネガティブな反応も合わせ視聴側の意見が容易に不特定多数に届くようになったのが、大きな要因かもしれない。要は元々くすぶる要素はあったのだけど、色々な面でラインを超えてしまい、さらに今まで個々の範囲で留まっていた疑問符が集約された感じ。
仲いい人にされて許せる悪ふざけでも、仲よくない人にされたら頭にくるじゃないですか。
今のフジテレビって「視聴者と仲よくない」んだと思う。なのに「なんで?昔は同じことしても許してくれたじゃーん!!」って思考、視聴者側が気難しくなった、って解釈なんだよ。 #27時間テレビ 2015
— 深読 モカコ (@own_mokako3) 2015, 7月 26
つづき)
フジテレビ「なんで?昔は笑ってくれたじゃーん!!昔みたいに笑おうよ~」のほうが近いかな。
視聴者と仲いいかどうかは、日ごろの積み重ねだかんな!
#27時間テレビ 2015
— 深読 モカコ (@own_mokako3) 2015, 7月 26
これも小さからぬ理由の一つかな。悪ふざけも勝手知ったる仲ならば多分に許されるけれど、今ではテレビそのものが視聴者との間に距離を置く存在となってしまった。どちらが離れたのかは別として。いつも遊んでいる友達が肩を叩いてそちらを向いてみたら指が出ていてほっぺたに刺さったら「なにすんだよー」で済むけれど、赤の他人にそれをやったら「何してるんですか、警察を呼びますよ」的なことになる。危険を感じて張り倒してしまうかもしれない。そんなところ。
かつては、いじめられっ子が外に向かってなんか言うなんてあり得なかったんだけど、これだけネットが普及した今は匿名での発信であれ、意見表明が可能になってるのよね。まだまだ小さなもんだし、ネット使ってるからっていじめ経験者といじめられ経験者が棲んでる層が重なってるわけではないけど
— 各務原 夕 怒りのデスロード (@nekoguruma) 2015, 7月 26
それでも、テレビの企画に対して不満や憤懣を吐き出す手段が出来たことで、視聴者側の意識が変わりつつあるのに、テレビ局の意識が変わってないってのはあるのかもしれない
— 各務原 夕 怒りのデスロード (@nekoguruma) 2015, 7月 26
@m_akama 言われてみればそうだ
— 各務原 夕 怒りのデスロード (@nekoguruma) 2015, 7月 26
これも一理ある。おかしいな、との思いは恐らく昔からあったんだろう。それが個々の間で消費されるだけで済むのではなく、気軽に第三者に投げかけることができるようになった。意識変化というよりは意識の共有的なものが近いかもしれない。まぁ、その分妙な連鎖反応なり、煽動に駆られやすいのも問題ではあるのだけと。
テレビ画面の中の出来事だから、すべては演出であり見世物であるというのもその通りなんだけど、だからこそ、「誰かが大切にしているもの」と設定されたものを「本人の意志に反して破壊する」ことを「みんなが笑うべきこと」として提示されることが、非常に不快な感じがするってのはあるんだろうなぁ。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
「誰かが大切にしているものを、本人の意志に反して破壊すること」を、「おもしろいこと」として演出されることが、「こういうのおもしろいだろ?」と見透かされているみたいでいやなんよなぁ。軽い程度のものなら勢いで笑ってしまいそうなことなんだけど、さすがに笑えないことに気づいてしまうと。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
うっかりしてると笑ってしまいそうになる自分も含めて、そういうことを「おもしろいこと」として提示されてしまうと、いやになるんだろうなぁ。
— サイ / 三原卓也 (@rhinoeye) 2015, 7月 26
この指摘はある意味はっとさせられてしまう、そして今のテレビなるものの問題点の一つを指摘しているかもしれない。自分にとってイヤなもの、想像すると不快さを覚えるものに関して、「これは面白いでしょ?」とする作り手側の意志が見えてくると、それに気が付き、むしろ不快さが高まることになる。子供の度が過ぎたからかいみたいなものを、大の大人が仕事として全国に向けてやっているようなものだ。さらには「視聴者がそれを面白いと思っているの?」とも認識できるので、なめられている感も持ってしまう。
色々な意味で、テレビ番組に限った話でも、環境も世の中の風潮も大きく変わっている。にも関わらずこれまでと同じような様式で切りこまれても、面白みを覚えるところはない。それどころかマイナス部分が目立ってしまう。その時代の流れ、変化に、メディア側が気が付いていない、対応しきれていないのでは、と再認識させられる話には違いない。
此処に投稿された不破雷蔵様、コメントがすばらしい、
視聴者は既に局のもくろみを透かして観ています、
しっかりした日本の為に本気で考えて欲しいです、
「今直に無くなっても良い局ランキング」というのもいいですね。