新幹線の事件における「安全神話」なる報道と「報道神話」と

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【新幹線の「事件」の話と安全性の問題】に続き、先日の新幹線内での事件の話。一部報道機関が「安全神話の崩壊」なる言い回しで今事件を解説していたけれど、それは違うだろうとの話があちこちから吹き荒れている。まぁそもそも新幹線の安全は神話の類では無く先行記事の通り過去の苦い経験や悲しい事故からの教訓、そしてたゆまぬ努力と工夫によって形成されたもの。第一「安全神話」ってのは裏付けのない張りぼてのような状態が瓦解した時の、揶揄の表現として使われるものだよね。

「神話」とは普段から言われている事柄が事実に基づかない空論だった、根拠の無かった時に使う揶揄です。今件は事故では無く事件で、運営側の責は無く、いかなる公共交通機関でも発生しうる事から、適切な言い回しではなく、報道として不適格です。そもそも鉄道の安全は関係者の努力と備えで創られているものです。また無知で無責任な報道が安全の敷居を上げる事で、現場に余計な負担がかかるのは避けるべきです。


むしろ、今件状況下で数時間で該当編成が自力で走行でき、路線の再開も果たせた事を評価すべきでしょう。また航空機搭乗の際のような手荷物検査をとの意見も一部にはありますが、新幹線では現実的では無いのは、運行ダイヤを確認すればすぐに分かるはずです。

今件は新幹線の安全性云々よりも、該当者の背景次第で検証すべき方向性は別のものになりますが、このような事案が発生した社会的状況について、問題視すべきではないでしょうか。


......という話を某所で解説できるようになれば行うつもりではあったけれど、その機会が無ければもったいないのでひとまずこちらに置いておいて。


今件にしても責めるべきは容疑者でありJR側では無い。防災と減災の話にも通じるところがあるけれど、JR側においては減災の概念ではほぼ完ぺきに近い対応として評価しても良い。これを「安全神話が云々」と叩くのは正気の沙汰では無い。

報道の文言を色々と精査していると「永田町の常識は世間の非常識」ならぬ「報道界隈の常識は世間の非常識」が頭の中で音を立てながら渦巻く感を覚えさせる。「安全神話」の崩壊では無く、報道は常に正しく、絶対的な権威あるもので、崇め奉る必要があり、民は常に平伏してそれに従うべきで、何人たりとも異論を挟むことは許さないとする「報道神話」の崩壊ではないのかな、と思うのは当方だけだろうか。

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このページは、不破雷蔵が2015年7月 1日 07:51に書いた記事です。

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